フニャディ=ヤーノシュ

[ヨーロッパ−中世]

ハンガリーの摂政でオスマンと戦った英雄。 父はトランシルヴァニアの貴族。 なおハンガリー人の名前表記は東洋と同じで、 フニャディが姓・ヤーノシュが個人名である。 それ以前の先祖は不明だが、ワラキアの豪族だったのではないかと推測されている。 傭兵隊長としてハンガリー王兼神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され、 イタリアなどで戦って功績を挙げた後、トランシルヴァニア公に任じられる。 度々寡兵を率いて侵攻してきたオスマン帝国軍を破ったが、 ヴァルナの戦いでは大敗してポーランド王兼ハンガリー王の ヴワディスワフを戦死させてしまう。 この際ワラキア公ヴラド2世(串刺し公の父)などから責任を追及され 死刑判決まで出たが、 それまでの功績から司令官の解任で済んだ。 その後ハンガリー国内の混乱を収めるため中小貴族の支持で復権し、摂政となった。 なお国王には少年ラディスラウスが就いたが、 専らボヘミア王としてプラハ・ウィーンに滞在したため 実際の政務はフニャディが取り仕切った。 またこの後ヴラド2世が死去したが、 フニャディによる暗殺ではないかという説もある。 オスマン帝国との戦いは一進一退であったが、 最後はベオグラードで10倍の敵に勝利した。 しかし、その直後ペストにより病死した。 なお長男ラースローはラディスラウス王と対立して処刑されたが、 次男マーチャーシュが巻き返し、 ハンガリー王に即位し大王と呼ばれるようになった。
フニャディはオスマン帝国と度々戦い、 スカンデルベグ・ヴラド3世と並ぶ英雄と見做されている。 軍事手腕は優れていたが寡兵で戦うことが多く、 ヴァルナの戦いを始め負けたことも何度かあった。 おそらく純粋な手腕では息子のマーチャーシュ大王が上であろう。 ただ、マーチャーシュはオスマン帝国との戦いに積極的でなかったため、 その父であるフニャディが英雄視されるようになったのだろう。

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