法正(ほうせい)

[中国−後漢末]

後漢末の武将・政治家。字は孝直。 劉備の参謀役として知られる。 長安近郊の扶風郡出身だが、 飢饉のため同郷の孟達と共に南下して益州の劉璋に身を寄せた。 劉璋の下で県令や校尉を務めたが、 重用されず同僚に誹謗されたことから主に不満を持ち、 荊州にいた劉備を新たな主として迎え入れることを友人の張松と共謀した。 始めに劉璋に進言して劉備に接近させ、 漢中の張魯の脅威を利用して劉備を友軍として招き入れることに成功した。 劉備が軍師ホウ統を失うなど苦戦を重ねながらも益州を奪取すると 法正はその功から蜀郡太守・揚武将軍に任じられホウ統の後釜の参謀役となった。 法正は有能ながら徳性に問題があり、 劉備に任用されると恨みを持っていた人を私情で勝手に処刑したりした。 このことを諸葛孔明に訴えた者もいたが、 孔明も益州侵攻時の功績の大きさから法正を処罰できなかった。 孔明と法正は性格が合わなかったが互いの才能は認め、 法典の蜀科制定などで協力し合った。 漢中は曹操が張魯を下し夏侯淵・張[合β]が駐屯していたが、 法正はこの漢中への侵攻を勧め、自身も従軍した。 特に定軍山の戦いでは前線で突出した敵将夏侯淵への急襲を進言し、 黄忠に夏侯淵を討ち取らせることに成功した。 その後援軍として遠征してきた曹操本軍も退けて劉備が漢中を制圧すると、 法正は尚書令・護軍将軍に任じられた。 しかし翌年病死し、悲しんだ劉備は「翼侯」という諡号を諡った。 なお劉備の生前に諡号を諡られたのは法正のみである (関羽や張飛・ホウ統に諡号が諡られたのは劉備の没後)。 その後劉備は夷陵で大敗するが、孔明は 「もし法正が生きていたらこのような事態は止められた」 と嘆いた。
法正は益州の協力者として劉備傘下に加わり、 ホウ統の死後はその役割を引き継ぎ軍事の参謀役となって漢中侵攻などを主導した。 勝手に私刑をするなど人格には難があったが、 曹操の大軍すら撃退した才能は劉備や諸葛孔明には高く評価されていた。 その死後彼の才を引き継げる者はおらず、 孔明に過大な負担がかかることになった。

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