彭寵(ほうちょう)

[中国−新・漢]

新末の動乱期の群雄の一人。 父の彭宏は漢の漁陽太守であったが、王莽に味方しなかったため誅殺された。 彭寵は官吏として王莽の親族の王邑の仕えていたが、 弟の彭純が反乱軍に加わっていたことを知ると 難を避けて同郷の呉漢と共に漁陽へ逃亡し、 その後更始帝が即位すると漁陽太守に任じられた。 王郎が天子を自称すると河北の多くの有力者がこれに組したが、 彭寵は部下となった呉漢の説得もあり上谷太守の耿況と共に劉秀についた。 呉漢に兵を率いさせて劉秀の下へ派遣し、 自身は後方支援を担当して劉秀軍の補給を賄い勝利に貢献した。 彭寵は大功があったが傲慢な所があり、 劉秀は部下として取り立てようとはしなかった。 その後劉秀が光武帝として即位しても恩賞などの音沙汰が無く、 彭寵は不満を募らせた。 さらに幽州牧朱浮と統治方針を巡って対立し、 劉秀から召還命令が届いても疑心暗鬼にかられて無視した。 劉秀は彭寵を宥めるため人質の子后蘭卿を送り返したが、 彭寵は子后蘭卿を自分の下に留め反旗を翻した。 この時上谷太守の耿況も反乱に誘ったが、 耿況は使者を斬り断っている。 彭寵は劉秀が派遣した遠征軍を破り、 さらに朱浮の軍も破って薊を占拠して燕王を自称し、 さらに匈奴や斉の群雄張歩と同盟し一大勢力を築いた。 しかし耿舒(耿況の子で耿エンの弟)に敗れて敗走し、 耿況・耿舒に領土を奪われると劣勢に立たされた。 疑心暗鬼にかられた彭寵は子后蘭卿や兵達を疑うようになり、 遠ざけるようになった。 しかしその結果守る者がいなくなり奴僕の子密によって妻と共に暗殺され、 首級は劉秀の下へ送り届けられた。 また息子の彭午が残党に擁立されたもののすぐに殺害され、 彭寵の親族は悉く処刑された。
彭寵は有能で劉秀の河北平定に貢献し反乱後は一大勢力を築いたが、 性格に難があり劉秀は取りたてようとはしなかった。 実際上司となる幽州牧朱浮と対立し、 同格の太守である耿況と連携できず、 呉漢らの元部下も誰も彭寵を助けようとはしなかった。 人望が無かったようである。 やたら周りを疑ってばかりなので当然といえば当然であるが。

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