北虜南倭(ほくりょなんわ)

[中国−明]

明は永楽帝の死後早くも衰退が始まり、外敵に悩まされるようになる。 北の国境ではかつて追い出したモンゴルの末裔である タタール・オイラートといった部族が度々進入した。 そして遂に英宗正統帝は戦いに敗北し、オイラートの捕虜となった。 これが北虜。 ちなみに朝廷は弟を皇帝にしてオイラートに抗したが、 後に英宗が釈放されたため、内輪でもめることになる。
一方、江南の海岸では、倭寇と呼ばれる海賊が猛威を振るっていた。 彼らは日本人の海賊という意味で倭寇と呼ばれていたが、 実際には中国の出身者も多かった。 彼らの持つ日本刀は槍の穂先を切り落とすなど絶大な威力を発揮し、 明兵に怖れられた。 そのため明では、穂先を落とされないよう枝の付いた槍を作ったり、 日本刀を倭刀として正式採用したりした。 また、倭寇との戦いでは威継光などの名将も生まれた。
これらをまとめて北虜南倭と呼んでいるが、 要するに明は踏んだり蹴ったりの状態が長々と続いていたのである。 ちなみに秀吉の朝鮮出兵も明では大規模な倭寇と見られていたと言う。

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