ホーエンシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェンちょう)

[ヨーロッパ−中世]

中世の神聖ローマ帝国の王朝。 一般にコンラート3世の即位からコンラート4世までを指す。 当時の諸侯間の思惑により、弱小であったホーエンシュタウフェン家が 君主として選ばれた (皇帝にはなれなかった)。 しかし、コンラート3世及びその甥のフリードリヒ1世 (バルバロッサ) の代に 勢力を拡大させ、皇帝に相応しい大諸侯となった。 一方、皇帝の常としてイタリアへの進出を図ったものの、 果々しい成果は得られなかった。 またバルバロッサは十字軍に参加したものの、戦う前に水死してしまった。 跡を継いだハインリヒ6世は、シチリアの姫と結婚していたことを利用して 両シチリア王位を手に入れ、最もイタリア政策で成功したが、 若くして病没してしまった。 その死後、息子フリードリヒ2世は幼少のため両シチリア王位のみ確保し、 帝位を巡って弟フィリップとヴェルフェン家のオットー4世が争い、 フィリップが一旦勝利するものの暗殺され、 オットーが皇帝となった。 しかし、フリードリヒが成長し、オットーが教皇と対立して破門されると、 オットーは廃されてフリードリヒが両シチリア王在位のまま皇帝となった。 この皇帝は「玉座の最初の近代人」と呼ばれ、 交渉によって聖地エルサレムを得るなどの成果を挙げたが、 周囲に理解されず、生涯北イタリアで戦い続けた。 また、このこととシチリア育ちの皇帝の無関心により、 ドイツにおける皇帝の支配力が弱まった。 ドイツ騎士団領が成立したのもこの頃である。 フリードリヒは志半ばにして病死し、 後継者のコンラート4世も在位4年で死去した。 以後帝位はしばらく空位となった (大空位時代)。 両シチリア王位もフランス王弟シャルル=ダンジューに奪われ、 最後の当主コンラディンは処刑され、ホーエンシュタウフェン家は断絶した。

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