范増(はんぞう)

[中国−秦・楚漢]

項羽に仕えた人物。 項羽から亜父(父に次ぐ者)と呼ばれ敬われたため、 後世項羽の参謀・軍師と見られるようになった。 范増が表舞台に現れるのは70歳になってからで、 秦末動乱で挙兵した項梁の元を訪れて方策を説いた。 范増は人心を集めるため楚王の子孫を王として立てることを説き、 これが容れられて懐王(後の義帝)が立てられた。 項梁の戦死後は上将軍宋義・次将項羽に次ぐ末将となり、 共に趙への援軍を率いた。 その後方針の相違から項羽が宋義を殺害するとこれに従い、 秦の章邯を破って咸陽目指して進軍した。 咸陽は劉邦によって既に陥落していたが、 范増は後に災いになるとして劉邦の殺害を進言したが、 項羽は鴻門の会で劉邦に会うものの結局殺さなかった。 范増は「豎子、ともに謀るに足らず(小僧と計略なぞできるか)」 と怒り劉邦から送られた玉斗を叩き壊したと伝えられる。 その後劉邦は僻地であった漢中の王となり、 項羽に従った諸侯も各地の王とされたが、 斉・趙を皮切りに反乱が起こり、 それに乗じて劉邦も挙兵し咸陽がある関中を制し項羽と対峙した。 この間詳細は不明だが范増は項羽に従い戦っていたようである。 項羽は劉邦をケイ陽城に追い詰めたが、 元項羽配下であった陳平が策を仕掛けて 項羽に諸将に対する疑心を植え付け、 使者に偽情報を掴ませて范増への疑いを決定的にした。 范増は項羽に遠ざけられると大いに怒り、 暇乞いをして項羽の元を去った。 しかし道中背中に膿が溜まる病となり、悪化してそのまま死去した。
范増は項羽に亜父とまで呼ばれた重臣で、 劉邦も「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、 項羽は范増一人すら使いこなせなかった」 と三傑と並べて評価していた。 実際の活躍は項梁への楚王の末裔を立てる進言と 劉邦の殺害を促す以外は不明な点が多いが、 鍾離眛や龍且らの腹心とも呼べる諸将とも別格に扱われており、 相当な力量や評判があったと思われる。 後世脳筋武将だらけな項羽配下の中でも特異な存在とされ、 軍師に祭り上げられることになった。

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