ハンニバル=バルカス

[北アフリカ・ヨーロッパ−古代]

第2次ポエニ戦争でローマと戦ったカルタゴの名将。 その名は「神の恵み」の意である。 彼は戦傷により隻眼であった。 イベリア半島を制圧したハミルカルの嫡子として生まれ、 子供の頃からフェニキア由来の神バールの前で ローマへの復讐を誓わされたという。 その真偽はともかく、その通りの人生を送ることとなる。 父ハミルカル・義理の兄ハシュドゥルバルの跡を継ぎ、 都市サグントゥムの帰属問題をきっかけとして、 彼らの準備した精鋭部隊を率いてローマに戦いを挑んだ。 まず、敵味方の予想に反して冬のアルプスを象隊まで率いて超え、 多くの犠牲を出しながらもローマの不意を突き、 イタリアへの侵入に成功する。 両者は体制を整え北イタリアのトレビアで戦い、川と優勢な騎兵、 さらに象を駆使してスキピオ(大スキピオの父) 率いるローマ軍に勝利した。 ローマは危機感を募らせ、大兵力で反撃を試みるが、 ハンニバルは地形と優勢の騎兵を用い、 トラシメヌス、次いでカンナエで自軍の2倍の敵に勝利した。 どちらも敵を完全に包囲して一方的に攻撃したが、 ローマ兵は降伏しなかったためほぼ完全な虐殺となった。 この時点でハンニバルは圧倒的に優位に立ったが、 これ以降ローマはハンニバルとの決戦を徹底的に避け、 ファビウスの提唱した持久戦を始めた。 ハンニバルはイタリアのローマ同盟都市の離反を期待したが、 予想に反して反乱は散発的なものにとどまった。 やがて大スキピオが成長し、異例の若さで将軍となり、 ハンニバルの本拠地イベリア半島を制圧されてしまった。 弟ハシュドゥルバルの援軍も敗れ、敵地で孤立無援となってしまった。 さらに追い討ちをかけるように、 ハンニバル軍の勝利の源であったヌミディア騎兵が内部分裂し、 新ローマのマシニッサが勝利、ローマに寝返ってしまった。 そして遂にスキピオ軍が北アフリカに侵入するに及び、 ハンニバルはイタリアからの撤退を余儀なくされた。 最初に進軍を開始してから16年後、紀元前202年、 常勝将軍ハンニバルはザマにおいてローマ軍に敗れた。 奇しくもこの年は項羽が垓下で敗れた年と同じである。 項羽と違ってハンニバルは脱出に成功、再起を図る。 本国カルタゴの行政長官にもなるが、 ローマに骨抜きにされたカルタゴでは反抗など望むべくも無かった。 東の各国に亡命し、何度かローマとも戦うが、 本当に信頼できる精鋭部隊を失ったためか 最早ハンニバルは勝利出来なかった。 最後は亡命先のビテュニアで、 ローマに身柄を要求されたため自害した。
実は大スキピオとはザマの開戦の前、さらに後に 亡命先のシリアで(敗将としてだが)直接対面している。 このシリアの時(古代の西洋で)最高の名将は誰かと尋ねられ、
1番目はアレクサンドロス大王
2番目はピュロス大王
3番目は自分(ハンニバル)
4番目は貴方(スキピオ=アフリカヌス)
と答えている。一寸ムッとしたのか、 スキピオが貴方がローマに勝っていたらどうですかと尋ねたら、
その時は私が大王を抜いて世界一の名将となっただろう
と答えたという。 この評価、ピュロス大王 (ローマに勝利はしたが、根気が続かず結局撤退した) の評価が高すぎることを別とすれば、結構妥当であると思われる。 大王は別格としても、カルタゴ本国の支援のほとんど無いまま ローマの大軍を独自の戦法で次々と破ったハンニバルは最強の名将であった。 カンナエの戦いは今でも士官学校で教えられている。 スキピオはハンニバルの戦法を踏襲したのと、 ローマの強力な組織支援があったため、 ハンニバルよりは一歩引くであろう(それでも充分名将なのだが)。 ハンニバルの敗因は、 何といってもローマとカルタゴの組織力の差であった。 この点、漢の組織力に敗れた項羽を彷彿とさせる (項羽よりハンニバルの方が頭は良さそうであるが)。 彼はその実力によって歴史を大きく動かした大人物であった。

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