[中国−漢]
後漢の武将。字は仲升。
西域(タリム盆地)で後漢の勢力圏を広げ後のシルクロード交易の礎を築いた。
文人一家の出身で、父班彪・兄班固・妹班昭は何れも史書「漢書」の編纂や文学で高名である。
班超も幼い頃は歴史や文学を学び、
長じては家が貧しかったため役所で文書の書き写しをして糊口をしのいでいた。
明帝が竇固率いる軍を北匈奴征伐に送ると班超は部下の仮司馬として加わった。
この戦いで班超は認められ、西域諸国への使者に抜擢された。
西域の入り口に当たる[善β]善(楼蘭)に使者として赴くと最初は歓迎されたが、
次第に待遇が悪化し、その原因が北匈奴も使者を送り込みそちらに靡いたためと知った。
班超一行36人に対し北匈奴は百人を超える多勢であったが、
このままでは殺されると判断した班超は部下に
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と叱咤して奇襲を敢行し大勝を収めた。
これによって楼蘭は後漢に帰服し、
さらにホータン・疏勒も帰服させてタリム盆地の南半分を後漢の勢力圏に収めた。
しかし明帝が死去するとそれに乗じて叛く国が現れ、
疏勒にいた班超は西域北部の国々の攻撃と寝返りによって孤立無援に陥ったが、
反逆者を斬って勢力を保った。
新たに即位した章帝は西域の放棄を決め班超にも帰還命令が出たが、
北匈奴を恐れた西域の諸侯に泣きつかれ三十余人の部下と共に疏勒に留まった。
やがて後漢の西域進出が再開されると援軍が送られ、
攻勢に転じて莎車を屈服させた。
大月氏(クシャーナ朝)が漢の公主との婚姻を求めるとこれを断って攻撃を招いたが、
持久戦で撃退し以後クシャーナ朝は漢に朝貢するようになった。
さらに北部の大都市である亀茲を降伏させると、
班超は西域都護に任じられ、さらに攻勢をかけて北匈奴側であった北部諸国を降伏させた。
こうしてタリム盆地を平定した班超はその功で定遠侯に封ぜられた。
その後部下の甘英を安息(パルティア)に派遣するなど西域経営に勤しんだが、
高齢となって望郷の念が高まり帰国を願い出、
洛陽への帰還を果たした翌月に死去した。
班超の死後、羌の反乱などで西域への影響力が低下し、
滅んだ北匈奴の残党やクシャーナ朝に侵食され諸都市は漢から離反していった。
漢は班超の子の班勇らを派遣し西域諸都市を奪還したが、
軍勢が引き返すと再び離反し班超がいた頃の勢力を回復させることは叶わなかった。