ハドリアヌス

[ローマ帝国]

五賢帝の一人。本名プブリウス=アエリウス=ハドリアヌス。 ヒスパニア(スペイン)の有力者の息子であったが、若い頃に父が亡くなったため、 父の従兄弟のトラヤヌスの養子になる。 養父トラヤヌスが皇帝となり、かつ息子がいなかったことから後継者候補となり、 シリア総督の要職に就いた。 己の力量と積極的なロビー活動により後継者として指名され、 皇帝となった。 しかし、間もなく反対派と見なした元老院議員を粛清し、統治早々に汚点を残した。 その後養父トラヤヌスの死により中断したパルティア遠征から完全に撤退、 ローマの平和を築くべく自ら帝国各地の視察に乗り出した。 その視察旅行は合計10年以上にわたり、 ローマ防衛システムの完備により次のピウス帝時代の平和の礎となった。 その間度重なる反乱に堪忍袋の緒が切れ、ユダヤ人を本拠地のパレスチナから完全追放した (ディアスポラ)。 晩年、またも元老院議員を処刑し、後の功績抹消未遂事件の原因となった。 彼にも息子はいなかったため、元老院議員のアントニヌス(ピウス)を養子とし、 また若いマルクスをその養子として後継者にした。 彼の死後元老院は議員に対する粛清のため彼の功績を記録から抹消しようとしたが、 新皇帝アントニヌスの強い反対のため沙汰止みとなった。
彼は五賢帝の中で最も野心的でアクの強い人物である。 養父トラヤヌスと違い戦争はしなかったが、彼の人生は波乱に満ちている。 自分にとって危険と思われる有力者を処刑した反面、 自ら広い帝国領内を視察し、各地で「ローマ化」を進めた。 彼も善と悪を併せ持った英雄であった。 彼に敵と見なされた人物にとっては違うだろうが、 「パクス=ロマーナ」を築いた名君であった。 少なくとも、後世の歴史家や私にとっては面白い人物である。 また、彼はギリシア文化に傾倒した文化人でもあり、 ポエニ戦争以来の伝統を破って立派な鬚を生やした人物である。 彼以降、ローマ皇帝の彫像も鬚を生やすようになる。

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