ドイツ参謀本部(ドイツさんぼうほんぶ)

[ヨーロッパ−近代〜戦間期]

プロイセン・ドイツの軍事組織。 軍備・動員や国全体の作戦計画を立案・研究する組織である。 プロイセンの兵站を担当する兵站幕僚を前身とし、 後に発展して兵站総監部となった。 プロイセンはナポレオン戦争期にイエナ=アウエルシュタットの戦いで ナポレオン率いるフランス軍に敗れ、立て直しを迫られた。 そこで兵站総監となったシャルンホルストは軍制改革を実施し、 後任のグナイゼナウと共にドイツ参謀本部の原型を形作ることとなった。 この改革でフランスと同様の徴兵制の実施や民営士官学校の許可などを行ったが、 グナイゼナウはさらに参謀や下級指揮官の権限を強化し、 例えば指揮官と参謀の意見が不一致の場合には参謀総長に直接具申できるようにした。 これらの改革は天才ナポレオン相手に組織力で勝利するためのものであったが、 後に参謀が暴走し軍が崩壊する遠因ともなった。 こうして参謀本部の原型は出来上がったものの、 ナポレオン戦争が終結すると保守的な王によってグナイゼナウは左遷され、 改革は停滞した。 しかしドイツ統一の機運が高まる中モルトケが参謀総長に就任すると また参謀本部の改革が行われ、近代戦へ対応した組織へと再構築された。 この成果は普墺戦争・普仏戦争で発揮され、 特に電信による命令伝達、鉄道による兵員輸送を活用して 高い機動力と高度な部隊連携を実現し、 短期間での勝利に貢献した。 ドイツ帝国が成立するとプロイセンの参謀本部がドイツ参謀本部となり、 政府を介さずに皇帝に意見具申する帷幄上奏権が認められ 強大な権限を有することとなった。 モルトケは首相ビスマルクや陸相ローンと時に対立はしつつも、 かれらの領分を犯すようなことはしなかったが、 モルトケやビスマルクの死後参謀本部を抑えられる政治家が居なくなり、 第一次大戦では中立国を侵略するシュリーフェン・プランが 政府に諮られることなく立案され、 修正はされたものの実行されてしまった。 参謀本部の参謀は軍事には精通していたが政治には無関心で、 そのため外交的に不利な状況を招き敗戦を招くこととなった。 大戦後ヴェルサイユ条約によって参謀本部は禁止されたが、 兵務局に偽装して存続させた。 ナチスの再軍備によって参謀本部も偽装を解いて復活したが、 ヒトラーが全軍の指揮を執るため国防軍最高司令部が設けられ、 参謀本部の役割が移された。
プロイセンは天才ナポレオンに天才無しで勝利するため、 参謀本部の原型を構築した。 他国では参謀は指揮官を補佐するものであるが、 プロイセンでは権限が強化され時に指揮官すら押さえつけられる権能が与えられた。 シャルンホルスト・グナイゼナウ・モルトケといった 優れたトップに率いられていたときは問題なく機能していたが、 優秀なリーダーが居なくなると暴走し、 外交政略を無視した挙句自滅して敗戦を招くこととなった。 同じことがドイツを手本とした日本でも起こり、 明治の元勲が率いていた頃は機能していたが、 昭和になると政府による統制が及ばなくなって暴走し、やはり敗戦を招いた。 元々普通の人の集団が天才に対抗するために生み出された組織であったが、 結局優れた指導者がいないと正常に機能させることが出来ないという 何とも皮肉な結果となった。

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