ギリシア独立戦争(ギリシアどくりつせんそう)

[ヨーロッパ−近代]

オスマン帝国の支配下にあったギリシアの独立を巡って争われた戦い。 オスマン帝国によるビザンツ帝国征服以降、 ギリシアの正教徒は政治的・経済的制約を受けながらも信仰を維持していたが、 オスマン帝国の衰退やフランス革命によるナショナリズムの台頭により、 ギリシアで独立の機運が高まっていった。 そんな中ギリシア商人達によってフィリキ=エテリア(友愛協会) という秘密結社が結成され、 セルビアやワラキアの一部とも連携して挙兵した。 蜂起軍には詩人バイロンなど理想主義者を中心とした義勇軍が加わって 当初は躍進したものの、 徐々に内部対立によって内戦と化し、 態勢を立て直したオスマン帝国によって追い詰められていった。 ウィーン体制を主導していたオーストリアのメッテルニヒは 独立に対して否定的であったが、 コンスタンティノープル総主教の処刑などで ロシアがオスマン帝国に対する態度を硬化させ、 ロシアの権益拡大を警戒したイギリス・フランスと共に軍事介入を行った。 ヨーロッパ列強の艦隊はオスマン帝国・エジプト連合艦隊とナヴァリノの海戦を戦い、 連合艦隊を壊滅させて戦争の流れを変えた。 ロシアは正式にオスマン帝国に対して宣戦布告し、 アドリアノープル条約を結んで領土を広げた上ギリシアの自治国化を認めさせた。 さらにロシアの影響を削ぎたいイギリス・フランスの介入により ロンドン議定書でギリシアの完全独立が認められた。 ただし独立運動指導者が目指していたギリシア人による共和政は認められず、 バイエルン王家のオットーを王とするギリシア王国が建国された。
このようにしてギリシアは独立したが、 その領土は小さく非独立地域に多くのギリシア人が残されており、 バルカン半島の他民族と共にその後の対立の火種として残った。 またこの一連の流れでヨーロッパ列強間の対立が露わとなり、 ウィーン体制崩壊の切っ掛けとなった。

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