[ヨーロッパ−近代]
プロイセンの軍人。
前任のシャルンホルストと共に参謀本部の生みの親である。
フルネームはナイトハルト伯アウグスト=ヴィルヘルム=アントニウス=フォン=グナイゼナウ。
ザクセン王国の砲兵士官の子として生まれたが、
実家のナイトハルト伯爵家は爵位の割にあまり裕福ではなかった。
幼い頃はドイツ諸国を転々とし、長じてエルフルト大学に入学したが、
退学してオーストリア軍に入隊した。
この頃遠縁のグナイゼナウ家が断絶したため父と共に二重姓を名乗るようになった。
その後出仕先を転々とし、アンスバッハ辺境伯に仕えたときに
外貨を稼ぐためアメリカ独立戦争にイギリス側の事実上の傭兵として参戦した。
帰国後はプロイセンに仕官し、以後生涯プロイセン軍に出仕することとなった。
イエナ=アウエルシュタットの戦いに参謀として従軍し、
善戦はしたものの敗れ降伏して捕虜となった。
捕虜交換で帰国するとコルベルク要塞の守備に派遣され、講和まで同地を守った。
戦後功績が認められて中佐に昇進し、さらに軍備再編委員会の委員に選ばれ、
上官のシャルンホルストらと共にプロイセン軍の再建・改革に取り組んだ。
この改革はナポレオンの警戒を招き、
これに屈した国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世によって中止となり、
さらにプロイセンがフランスと同盟するに及んで改革派軍人の失望を招いた。
シャルンホルストらは軍を辞めて亡命し、グナイゼナウも退官を考えたが、
慰留され特使として諸外国を歴訪した。
ナポレオンがロシア遠征に失敗して情勢が変わると軍務に復帰し、
参謀次長として総司令官ブリュッヘル・参謀長シャルンホルストを補佐した。
シャルンホルストが戦傷によって死去すると後任の参謀長となり、
ブリュッヘルによって全軍の作戦立案から実行まで任され、
事実上の采配を握る者としてプロイセンの勝利に貢献した。
この功績によってグナイゼナウは伯爵に叙せられたが、
ナポレオンのエルバ島脱出によって再び参謀長となった。
総司令官のブリュッヘルが負傷したためグナイゼナウが代行としてプロイセン軍を指揮し、
ワーテルローの戦いではグルーシー率いる別動隊を避けた上で主戦場に強行進軍し、
フランス軍主力の撃破に貢献した。
戦後グナイゼナウがコプレンツ司令官となり参謀長のクラウゼヴィッツと共に献言を繰り返したが、
フリードリヒ王は反動的になり献言は受け入れられないようになった。
そのためグナイゼナウは軍を退官し、以後はベルリン知事や国会議員を務め、
また名誉職として陸軍元帥の位を与えられた。
晩年ポーランドに反乱の機運が高まり軍司令官に任命されたが、
コレラに感染しそのまま病死した。
グナイゼナウはシャルンホルストと共にプロイセン参謀本部の生みの親として高く評価され、
またワーテルローの戦いでの采配など野戦指揮官としても評価されている。
しかし晩年は王や軍首脳の保守化、と言うより反動化によって改革は頓挫し、
不本意な晩年を送ることになってしまった。
さらに死後間もなく後継者と言うべきクラウゼヴィッツまで病死してしまったこともあり、
参謀本部と改革路線は停滞の時代を迎えてしまった。
再び参謀本部が脚光を浴びるのは、
ドイツ帝国成立過程でのモルトケの活躍まで待たなければならなかった。