[ヨーロッパ−近世]
近世イングランドにて王ジェームズ2世が追放されたクーデター事件。
大規模な戦闘が起こらなかったため「無血革命」とも呼ばれる。
またイングランド国教会の国教化が確定し、権利章典によって国王の権限が制限され、
イギリスの議会政治の基礎が築かれた。
清教徒革命失敗後の王政復古でステュアート朝の王が再び即位したが、
革命前のように議会の王に対する評価は低かった。
さらに亡命時代にカトリックに改宗していたジェームズ2世が即位すると、
カトリック教徒を重用してプロテスタントの大臣を罷免し、
議会との対立は決定的となった。
議会側は王の長女メアリーがプロテスタント国のオランダ統領ウィレム3世に嫁いでいたため
後継者に期待していたが、ジェームズ王に長男が生まれたため、
強硬手段に訴えウィレム・メアリー夫妻に上陸を要請した。
フランス侵攻に対抗するためイングランドを味方にしたかったウィレム夫妻はこれに応じ、
フランスの矛先がドイツに向かった隙をついて夫ウィレムが軍を率いて上陸した。
ジェームズはこれに対抗しようとしたが軍の士気は上がらず、
司令官のチャーチル(後のマールバラ公)は戦わずにウィレムに投降してしまった。
ここに至りジェームズはフランスへの亡命を試み、ケントで捕えられてしまった。
議会側はジェームズを殉教者にすることを嫌って亡命を認め、
ウィレムは王不在のロンドンへ入城し、メアリーとともにイングランド王ウィリアム3世として即位した。
その後ウィリアム夫妻は議会の優越を認めた権利の宣言に署名し、
これは権利の章典として発布された。
名誉革命(偉大なる革命)はイギリスの議会政治の基礎を築いたことに加え、
ほぼ無血で成し遂げられたことから名づけられた。
しかし特にスコットランド・アイルランドではカトリックでジェームズ支持の住民が多く、
彼らはジャコバイトとして長い内戦を戦うこととなった。