巫蠱の獄(ふこのごく)

[中国−漢]

漢の武帝の代に起こった事件。 皇太子であった劉拠が陰謀によって反乱に追い込まれ、 多くの死者を出し武帝の治世の汚点となった。 巫蠱の禍・巫蠱の乱とも呼ばれる。 最初は丞相の公孫賀の子である公孫敬声が横領で捕らえられ、 身代わりに侠客の朱安世を捕らえて身代わりにしようとしたことから始まった。 その朱安世は恨みから公孫敬声が武帝の娘の陽石公主と密通し 武帝を呪詛していると告発した。 公孫賀の一族は獄死・刑死に追い込まれ、 さらに巻き添えになる形で武帝の娘の陽石公主・諸邑公主、 大将軍衛青の子で衛皇后の甥である衛伉が処刑された。 当時武帝は近臣の江充を信任していたが、 江充は衛皇后やその子である皇太子の劉拠と対立しており、 上記事件に想を得たのか呪詛を利用して彼らを除くことを思いついた。 武帝が病気になった際にその病気は劉拠の巫蠱によるものであると奏上し、 証拠を捏造し拷問によって自白を強要し、 疑心暗鬼に陥っていた武帝はこれを信じた。 追い込まれた劉拠は食客を使って江充を捕らえ斬り捨てたが、 逃げのびた江充一味の話を聞いた武帝は 確認の使者が真実を伝えなかったこともあってこれを反乱と断じ、 内乱に発展してしまった。 劉拠は脱出を繰り返しながら巻き返しを図ったが果たせず、 追い詰められて自決した。 またこれを知った衛皇后も自殺し、 衛一族や劉拠の子らは誅殺され、 幼い孫の劉病已(後の宣帝)のみが生き残った。 後日江充による証拠の捏造が明らかとなり、 江充の一族や劉拠を追い詰めた一味は誅殺され、 冤罪が明らかになった劉拠のために思子宮という宮殿が建てられた。

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