フリードリヒ2世

[ヨーロッパ−中世・近世]

  1. ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ帝国皇帝・両シチリア王。 両シチリア王としてはイタリア語でフェデリーコ1世。 幅広い学識と合理的思想から「世界の驚異」「玉座の最初の近代人」 とも言われる。 皇帝兼両シチリア王ハインリヒ6世と両シチリア王女コスタンツァの息子だが、 両親共に早世したため、幼くして両シチリア王となった。 教皇イノケンティウス3世の後見の下、 シチリアのパレルモで育った。 当時のシチリアはイスラム教圏との交流が深く、 元々好奇心が強く度々市井に出ていたフリードリヒは 多くの言語を話す国際人へと成長した。 また、鷹狩や自然科学に対して興味を持ち、広い知識を持つようになった。 皇帝位を巡る権力争いから皇帝に担ぎ出され、 対立するオットー4世を破って帝位に就いた。 しかし、ドイツの統治は息子ハインリヒに任せ、 自身はシチリアへと帰った。 皇帝となったフリードリヒには十字軍を興すことが期待されたが、 彼自身には意欲が乏しく、 遂にタカ派の教皇グレゴリウス9世に破門されてしまった。 そこでフリードリヒはエルサレム女王イザベルと結婚し、 エルサレムへと向かった。 ただしそこでは戦わずに、 当時内乱状態にあったアイユーブ朝のアル=カーミルと交渉し、 エルサレムの統治権を手に入れた。 その代償はイスラムの聖地岩のドームをイスラム教徒に委ねることと 十字軍からイスラム教徒の安全を守ることであった。 これは当時の対立状況を考えると驚異的なことである。 しかし、彼の進んだ考えは当時の人々には理解されず、 すぐに反対派との内乱となった。 彼はイタリアにおいて度々勝利し、破門も解除されたものの、 遂に決定的勝利には至らなかった。 また、イタリアに専念するため、ドイツ諸侯に様々な権利を認めたが、 そのためドイツ王となった息子ハインリヒが敵に回り、 結局これを幽閉して自殺に追い込むことになってしまった。 エルサレム統治も疎かになったため アル=カーミルの死後アイユーブ朝に奪還され、 混乱が続く中秒病没した。 彼の死後ホーエンシュタウフェン朝は戦いに敗れて断絶した。
    かれはそのあだ名の通りの素晴らしい知識人であったが、 あまりにも進みすぎた考えは当時の人々には理解されず、 不幸な生涯となってしまった。 彼もまた悲劇の人である。
  2. プロイセンを大国に発展させた王。大王と称される。 父フリードリヒ=ヴィルヘルムは言わば戦争キチガイで、 彼はそれに反発して詩や音楽 (特にフルート) に没頭した。 家出を試みて失敗し幽閉されたこともある。 父の命令でエリザベート=クリスティーナと結婚したが、 美しいが平凡な彼女には興味が持てず、生涯子供は出来なかった。 それでも妻の方は夫を尊敬し続けたようである。 父の死に伴い王として即位し、 数々の開明的な政策を行い、啓蒙専制君主の典型となった。 ただし、軍備も父よりさらに増強した。 直後にオーストリア皇帝の死去に伴ってシュレジエンの領有権を主張し、 オーストリア継承戦争を始めた。 5年後、帝位をマリア=テレジアが継承することを認める代わりに、 シュレジエンの併合に成功した。 戦後、啓蒙専制君主らしい政策でプロイセンの復興に全力を傾けた。 ヴォルテールを招いたのもこの頃である。 ただし、ユンカーを温存するなどして、抜本的な行政改革には至っていない。 しかし平和は長くは続かず、 シュレジエン奪還を図るマリア=テレジアはロシアの女帝エリザベータ・ フランスの実権を握っていた王の愛妾ポンパドゥール夫人と同盟し、 プロイセンを包囲した。 フリードリヒは女性を軽蔑する所があり、それが不利に働いたとも言われる。 この時点でプロイセンの味方はイギリスだけであったが、 フリードリヒは先手を打つことに決め、 ザクセンに攻め込んで七年戦争が始まった。 プロイセンはフリードリヒの軍事手腕で度々勝利するものの、 人口比 20:1 の劣勢は覆せず、やがて守勢に回った。 イギリスの支援も無くなり フリードリヒ自身が自殺を考えるまでに追い詰められたが、 ロシアのエリザベータが急死し、 フリードリヒ崇拝者であったピョートル3世が跡を継いだ。 これによりロシアと講和し、他国も次々と手を引き、 遂にオーストリアと講和してシュレジエンの領有を確定した。 その後は戦いのダメージも考えて大きな戦争を起こすことはせず、 復興に努めた。 ただ、ポーランドの分割で領土をさらに広げた。 晩年は親しい人々に先立たれて人間嫌いになり、 専ら愛犬と共に過ごしていたという。 死後、子供がいなかったため、 甥のフリードリヒ・ヴィルヘルムが跡を継いだ。
    フリードリヒ大王は啓蒙専制君主であり、 著述やフルートを愛したが、 同時に横隊戦術を発展させた戦術の大家でもあった。 王子時代、「反マキャヴェリ論」を書いて権謀術数を否定したが、 即位後に戦争によってシュレジエンを奪い取った。 この相反する面を持っていることが「大王」の「大王」たる所以であろう。
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