フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい)

[ヨーロッパ−近代]

普仏戦争の最中ナポレオン3世失脚によって生まれた政体。 ナポレオン3世がセダンの戦いで敗れ捕虜となると これに怒ったパリ市民の求めに応じて臨時政府が設立され、ナポレオンは廃位された。 臨時政府は戦争を続行したが、 退勢を覆すことは出来ず アルザス・ロレーヌの割譲と賠償金の支払いを条件に講和した。 この敗戦の決定を不服とする市民によってパリ=コミューンが樹立され 臨時政府をパリから追い出したが、 プロイセンの協力で兵力を集めた臨時政府によって鎮圧された。 臨時政府内では共和派の他王党派(スペインブルボン家派とオルレアン家派)・ ナポレオン支持のボナパルティストらが乱立し不安定な状態であったが、 王党派に推されたシャンボール伯アンリが 三色旗の受け入れを拒否したことで国民の支持を失い、 共和制憲法が制定されて正式に第三共和政が成立した。 共和政政府は敗戦からの回復を目指したが、 対独強硬策を唱える右翼と社会主義を唱える左翼が台頭して内政は不安定となり、 ブーランジェ事件やドレフュス事件といったクーデター未遂事件が度々起こった。 外交面ではビスマルクによりヨーロッパの覇権を失った上外交的孤立が図られたが、 ロシアを切り崩し虎口を脱した。 また帝国主義を推し進め植民地の拡大に努めた。 ビスマルクの失脚後ヴィルヘルム2世が露骨に野望を露わにすると イギリス・ロシアとの関係を深めて対抗し、 第一次世界大戦では協商国の主力の一員として参戦した。 戦後戦勝国となったフランスは普仏戦争で割譲させられたアルザス・ロレーヌを奪還し 多額の賠償金を課したが、 この過酷な条件がナチスの台頭を招き、 第二次世界大戦を引き起こす遠因となった。 ナチスドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まると フランス軍はマジノ線の要塞に籠って対峙したが、 ドイツ側の侵攻が始まると戦車などの機動力を生かした電撃戦に対処出来ず、 戦いに敗れてパリも陥落し、 フランスは降伏して第三共和政は終焉した。 戦時中は事実上のナチス傀儡であるヴィシー政権と 亡命政権である自由フランスが対峙したが、 戦後自由フランスによって第四共和政が成立し、 第三共和政は正式に消滅した。

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