フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう)

[ヨーロッパ−近代]

フランス革命に対して反発した諸外国と革命政府との間の戦争。 一般に1792年のジロンド派政権による宣戦布告から 1802年のアミアンの和約までの一連の戦役を指す。 フランス革命によってオーストリア皇帝の妹である 王妃マリー=アントワネットの身に危険が迫るようになると、 革命によって亡命を余儀なくされた貴族の扇動もあり、 オーストリアはプロイセンと共に革命への介入を宣言した。 これが革命政府によって過大に受け止められ、 ジロンド派革命政府による宣戦布告へと繋がった。 しかしフランス軍は士官である貴族の大量亡命によって指揮系統が混乱し、 各地で敗退を続けた。 危機に応じて集まった義勇兵により一旦はフランス側が持ち直したが、 国王ルイ16世の処刑によってイギリスやスペインなどの諸国が敵に回り、 第1次対仏大同盟が結成されてしまった。 これに対しジャコバン派政権に代わった革命政府は国家総動員を発令し、 「勝利の組織者」カルノーの手によって徴兵制による国民軍を編成した。 これによってフランス軍の規模は諸外国を圧倒するようになり、 国内の反乱を鎮圧し諸外国に対しても逆に侵攻するようになった。 まずオランダとライン川西岸を占領し、 プロイセン、次いでスペインを戦いから脱落させた。 総裁政府に代わった革命政府は次にオーストリアと対決したが、 ナポレオン指揮下のイタリア方面軍が連戦連勝し、 カンポ=フェルミオの和約を結んで戦いから脱落させた。 この時点でイギリスのみが敵国として残っていたが、 事態を打開するためナポレオンはエジプト遠征を決行したものの戦況が悪化し、 またアイルランド侵攻も失敗して第2次対仏大同盟が結成されてしまった。 再び革命政府は危機を迎えたが、 エジプトから脱出したナポレオンがクーデターを起こして執政政府を樹立し、 再びイタリアに進出してオーストリアに勝利した。 これによって再び交戦国はイギリスだけとなり、 対仏強硬派の小ピット内閣が退陣すると講和の機運も高まり、 アミアンの和約によって戦争は終結した。
一連の革命戦争によってフランスは徴兵制による国民軍を生み出し、 歴代君主を上回る軍事的成果を挙げて領土を拡大した。 一方勝利の立役者であるナポレオンによる独裁体制を確立させることとなり、 帝政移行による共和政の廃止にも繋がることとなった。

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