フランツ1世

[ヨーロッパ−近世]

ハプスブルク=ロートリンゲン朝の初代神聖ローマ皇帝。 ただし、オーストリアの実権は妻で先代皇帝の娘であるマリア=テレジアが握り、 フランツの権限はトスカーナに限定されていた。 ロートリンゲン公の次男として生まれ、 皇帝カール6世に気に入られて娘マリア=テレジアの婿となった。 しかし、諸外国の反発を抑えるため父・兄の死後 継承していたロートリンゲンをフランスへ割譲され、 代わりの領地として断絶したトスカーナ大公国を領有することとなった。 オーストリアではマリア=テレジアの入り婿として屈辱的な扱いを受けたと伝えられる。 先帝カールの死後、オーストリア大公マリア=テレジアの共同統治者となったが、 諸外国からこの継承に物言いが付き、 さらにプロイセンやバイエルンの侵略により対立が決定的となり オーストリア継承戦争へと発展した。 戦争の結果豊かなシュレージエンを奪われたが、 フランツが皇帝に即位しオーストリアは大国の地位を保ち続けた。 既に実体が失われていた神聖ローマ皇帝の権力はほとんど無く、 オーストリアの国政にはほとんど関与しなかったが、 教養が深く文化や科学の面ではパトロンとしての業績があった。 また経営者としての手腕があり、後の7年戦争時、 オーストリアの国債発行時の保証人となるほどの資産を保有していた。 さらに妻マリア=テレジアは美形でない娘マリア=アンナに対して冷たかったが、 フランツはこの娘にも目を配り、良き父であったという。 7年戦争の終結後、次男の結婚祝いのために滞在していたインスブルックで急死した。 その死は妻マリア=テレジアを悲しませ、以降マリアは生涯喪服で過ごした。
王朝の初代であるにも関わらず、 実権を妻が握っていたため影が薄い入り婿という印象があり、 実際オーストリアでの扱いも悪かったが、 優れた手腕を持つ財政家であり、文芸振興のパトロンであり良き父でもあった。 同時代のフリードリヒ大王のような天才ではないが、 フランツもなかなかの人物であったと言えよう。

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