ジョゼフ=フーシェ

[ヨーロッパ−近代]

フランス革命期・ナポレオン帝政期・王政復古期の政治家。 警察大臣を務め、タレーランと並ぶ謀略家として知られる。 フランス西部のナント近郊で船員の子として生まれ、 病弱だが勉学に優れていたため修道会の寄宿学校に入学し、 長じて教師となった。 フランス北部のアラスで教鞭を取った際に 後に革命で重要人物となるカルノーやロベスピエールと知り合っている。 革命が勃発すると穏健共和派であるジロンド派に近い立場の 国民公会の議員となったが、 国王ルイ16世の処刑に賛成したのを切っ掛けに急進派の山岳派に鞍替えした。 ロベスピエールの恐怖政治に加わってカトリックを否定する政策を主導し、 リヨンの反乱鎮圧後に派遣され報復の大量処刑を行い 「リヨンの霰弾乱殺者」という汚名で呼ばれることになった。 しかしこの虐殺が切っ掛けでロベスピエールの不興を買い、 テルミドールのクーデターに加わって逆にロベスピエール政権を倒した。 続く総裁政府では情報収集能力を買われて警察大臣を務めたが、 ナポレオンに接近してまたクーデターに加わり、 統領政府、さらに帝政に代わっても警察大臣の地位を保った。 フーシェは密偵を用いた秘密警察の情報網という武器でナポレオンに評価されたが、 同時に警戒もされた。 ナポレオンの終身統領就任に反対して一時失脚したが、 ナポレオン自身が狙われたアンギャン公事件で手腕を示し、 元の地位に復帰した。 帝政期にナポリ王国のオトランド公爵の地位を授かったが、 この頃になるとタレーランと共にナポレオンの没落を予想して 新たな陰謀を画策するようになった。 ナポレオン側も警戒を強め、対イギリス戦での越権行為が露見して辞職した。 その後イリュリア総督となるものの、 既に劣勢であったため短期間で敵連合軍に追い出された。 王政復古でも大臣の地位を持ちかけられたが、 ナポレオンがエルバ島を脱出したことを知っていたためこれを断り、 復帰したナポレオンの下で警察大臣に復帰した。 ナポレオンがワーテルローで敗れ政権が崩壊すると 臨時政府首班としてルイ18世を迎え入れたが、 国王処刑に賛成したフーシェは不興を買い失脚、 ザクセン駐在大使として左遷された上で国外追放となった。 その後は各地で亡命生活を送り、最期はトリエステで死去した。
フーシェは辣腕の政治家で、 警察による諜報活動は後に日本でも川路利良が手本にしたほどであった。 しばしばタレーランと並び称されたが、 どちらも優れた手腕を持ちつつ裏切りを厭わない変節漢であるが、 貴族出身で快楽を追及し汚職に走ったタレーランに対し、 低い身分の出身であるフーシェは勤務態度は真面目で良き家庭人でもあった。 だがその分柔軟性を欠いたのか世渡りでタレーランの後塵を拝すことになり、 最期は失脚して亡命先で寂しく死んだ。 彼の重ねた変節を考えればやむを得ないであろうが、 むしろ失脚せず天寿を全うしたタレーランが異常であるとも言える。

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