コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく)

[ビザンティン帝国・オスマン帝国]

歴史上コンスタンティノープル(現イスタンブール)は度々攻撃されたが、 その優れた防御力と強力なビザンティン帝国軍によりほとんど撃退してきた。 そのコンスタンティノープルが攻略されたのは三度ある。 最初は第4回十字軍によるもの、 次はその十字軍勢力の隙を付いてニケーア帝国が奪回したとき、 3度目はオスマン帝国によるものでこれがビザンティン帝国の滅亡へと繋がった。 ここでは最も有名な3度目の帝国滅亡へ直結した戦いについて述べる。
当時のビザンティン帝国は最早首都コンスタンティノープルと ペロポネソス半島のモレアしか領土が残っていなかったが、 大国オスマン帝国の属国として辛うじて生きながらえていた。 しかし、若いスルタンであるメフメト2世に対抗するためオルハンを擁立したことで、 オスマン帝国と敵対してしまった。 尤もこの件が無くともいずれ敵対したであろうが。 ビザンティン皇帝コンスタンティノス11世は事態を打開するため 西ヨーロッパ諸国に救援を求めたが、 僅かにヴェネツィアとジェノヴァが数千人の援軍を送ったのみであった。 コンスタンティノープルは三方を海に、 のこる一方を三重の城壁に守られた城塞都市であり、 さらに金角湾は鎖によって守られていた。 しかし狭い領土と援軍の不足のため1万に満たない兵力しか集められなかった。 対してオスマン帝国は相手の総兵力の10倍以上の約10万と言われる兵力を集め、 さらに全長8mという巨大なウルバン砲も用意して万全の体勢で攻略に臨んだ。 最初は唯一陸に面する西側から砲撃中心に攻撃したが、 射撃間隔が長かったこともあり城壁の修復を許してしまった。 事態を打開するためメフメトは船を陸上で移動させ鎖の内側に持ち込み、 敵の補給路を断つことに成功した。 さらにモレアへの退去を条件に降伏も打診したが、 コンスタンティノスはこれを拒否し、 メフメトは総攻撃を決意した。 結局最後に勝敗を決めたのは数の力であった。 ビザンティン側も善戦したもののやがて崩れだし、 門の通用口の施錠忘れという不運もあって城壁内に攻め込まれ壊滅した。 コンスタンティノスは最後まで前線で指揮を執り続けたが、 最後は敵陣に突っ込んで討ち死にした。 こうして1000年以上続いたビザンティン帝国は滅亡し、 オスマンの若きスルタンは「征服者」として称えられることとなった。
ほとんど滅亡寸前とは言え1000年に亘って君臨してきた帝国の滅亡の衝撃は大きく、 以降オスマン帝国は東欧のみならず西欧諸国にとっても 脅威として認識されるようになった。 実際ヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア都市国家は東地中海の覇権を オスマン帝国に奪われ、徐々に没落していくことになった。 代わってイベリア半島の国家が外洋に乗り出して大航海時代を迎え、 覇権交代の切っ掛けとなった。 また多くの文化人が主にイタリアへ亡命し、 イタリア=ルネサンスの原動力の一つとなった。 この事件は同年の百年戦争終結と共に世界史の大きな転換点となったのである。

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