[ヨーロッパ−近代]
オーストリアの皇族・軍人。
カール大公として知られ、ナポレオンを苦戦させた名将として名を残している。
皇帝の弟でトスカーナ大公であったレオポルドの子としてフィレンツェで生まれ、
テシェン公であった伯母夫婦の養子としてウィーンで育てられた。
幼少期には華奢で病弱であったが、軍事に関心を示して勉学に励んだ。
ネーデルラント総督となった養父母に従ってネーデルラント (現ベルギー) に移り住み、
そこでフランス革命戦争に参戦することとなった。
初陣であったものの善戦して失地奪還に貢献し、
養父母の後任の総督に任じられた。
しかしその後ネーデルラントはフランスに奪われ、
さらに健康を害したカールはウィーンへと戻った。
健康を回復した後元帥ライン方面軍司令官として軍務に復帰し、
フランス相手に連戦連勝であったが、
イタリアでナポレオン相手に敗北を重ねたため
オーストリアは不利な条約を結ばざるを得なかった。
ナポレオンのエジプト遠征での苦境から始まった第2次イタリア遠征では、
健康を害していたものの参戦し、
敗れはしたものの開戦前の状況で持ちこたえることに成功した。
アウステルリッツの戦いの際にはイタリアでマッセナ率いる別動隊相手に善戦していたが、
本隊がナポレオンに敗れたためオーストリアは敗戦を迎えた。
戦後カールは軍総帥並びに陸軍大臣として大権を任され、
軍の改革に取り組んだ。
フランスとの再戦ではアスペルン=エルリンクの戦いでナポレオン相手に勝利し、
初めてナポレオンに野戦で勝利した将軍となった。
しかしその後ヴァグラムの戦いで敗北して結局オーストリアの敗北に終わった。
負傷したカールは役職を辞任し、ウィーンで隠棲生活を送った。
その後は短期間メンツ総督を務めた以外は公職に就くことは無く、
死去するまで主に軍事論の著述をして過ごした。
カールはナポレオンに黒星をつけた将軍として有名であり、
ナポレオンほどではないが同時代のオーストリアでは最も有能な軍人と見做されている。
また晩年の著述によって軍事思想家としても知られ、
前近代から近代への過渡期の思想家と見られている。
ただし高貴な生まれのためか保守的なオーストリアの環境のためか、
非常に慎重かつ保守的な傾向が見られ、そこが批判されることもある。
また病弱で度々療養を余儀なくされており、
ナポレオン戦後若くして引退したのも健康上の理由が大きかったと思われる。
ただし早めの引退が良かったのか病弱な割に長生きはできた。