[中国−漢]
後漢末の政争から起こった弾圧事件。 後漢は早世した皇帝が多く幼帝が続いたため、 後ろ盾として外戚(皇后の実家)が実権を握ったが、 成長して実権を取り戻したい皇帝はこれ除くため 身近な存在であった宦官を頼った。 このため外戚と宦官による権力闘争が常態化した。 しかし桓帝が外戚の梁冀を自害に追い込むと外戚の影響力が衰え、 宦官が実権を握るようになった。 一方政策を遂行する官僚は多くが儒教の徒である士大夫(豪族)であったが、 宦官は子孫を残せないため儒教的観念から嫌われていた上に 多くの宦官が私利私欲の追求に走り汚職が蔓延したため士大夫との対立が深まった。 士大夫は自らを清流派と名乗り、宦官勢力を濁流派と呼んで公然と非難し告発したが、 宦官は「党人(士大夫の一党)が朝廷を誹謗した」と訴え告発者を逮捕し、 終身禁錮(官職追放)の刑となった。 さらに3年後外戚の竇武と清流派の陳蕃が中心となって宦官排除のため挙兵したが、 失敗して逆に誅殺された。 後に処罰の対象は党人の一族郎党に拡大されたが、 黄巾の乱が起こると党人が加担することを防ぐため禁が解かれ、 党錮の禁は終結した。 しかし黄巾の乱の終息後再び外戚の何進と宦官の十常侍の間で政争となり、 両者が共倒れとなった上 漁夫の利を得た董卓が暴政を行ったことで後漢の統治能力は失われることになった。
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