[ローマ帝国]
「天性の統治者」の異名を持つローマ皇帝。
その名の通り軍人皇帝時代の混乱を収束させた名君である。
この時代の他の皇帝と同じくドナウ川沿いのイリリクムの出身で、
1兵卒から身を立てて皇帝ヌメリアヌスの護衛隊長にまでなった。
ヌメリアヌスが暗殺されると皇帝に推挙され、反対派の抵抗を排して即位した。
彼は同僚のマクシミアヌスを副帝、次いで正帝に任命し、
帝国を東西に分けて自分は東側、マクシミアヌスには西側を治めさせた。
複数の皇帝はマルクス=アウレリウスも実施したことがあるが、
帝国領を分割統治させるのは彼のアイディアである。
また、カエサルを副帝、アウグストゥスを正帝と分けられたのはこの時からである。
次いで自分の次の世代からコンスタンティウスとガレリウスを起用し、
副帝としてさらに帝国を分割して統治させた。
このことから後にテトラルケース(四分統治)と呼ばれるようになった。
また、自分はローマではなく帝国の東側、最も経済的に豊かな地域を治め、
アナトリアのニコメディアに都を置いたのは注目に値する。
後のビザンティン帝国の基盤はこの頃から作られたと言っても良いだろう。
帝国を4分割するだけではなく、属州も細分化して100個くらいにし、
それをまとめて12の道を制定した。
しかしこのような統治により帝国の混乱を鎮める一方、
ディオクレティアヌスには後世嫌われる一面もあった。
一つは皇帝の権威を回復させるための専制君主化である。
それまで皇帝は「第一市民」であり、表面上は共和政の枠組みを保っていたが、
ディオクレティアヌス以降、オリエントの専制君主並の仰々しいものとなった。
これはあまりにも大きくなりすぎた帝国の混迷を終わらせるためには
止むを得ないものではあったのだろう。
もう一つ、最も後世に悪名を残したのはキリスト教の迫害である。
元々はガリエヌスが熱心に勧めたことで、
ディオクレティアヌスはあまり乗り気ではなかったというが、
事実は疑わしい。
ともかく、旧来の多神教が脅かされる位キリスト教徒の数が増えていたこともあり、
ネロ帝とは比較にならない規模の迫害となった。
結局後世ヨーロッパはキリスト教一色となるため失敗して汚名を残したが、
キリスト教の迫害は五賢帝も行っていたことである。
自分の神以外の一切を認めない、
しかもユダヤ教徒と違ってそれを外部に広げようとするキリスト教徒は、
ローマの神々を信奉するローマ人にとっては彼らこそ「悪」であったのだ。
それ故、特にルネサンス期以後、ディオクレティアヌスは名君であるという評価が定着し、
名君とキリスト教迫害を何とか切り離そうとして、逸話が生まれたと思われる。
晩年、体調を崩して同僚のマクシミアヌスと共に退位し、
田舎で晴耕雨読の生活を送ったという。
後の内乱で、軍隊の横暴を見かねて略奪行為を止めるよう懇願したこともあったが、
ご隠居の方がえらい東洋とは違い、先人に対する尊敬の念はあまり無かったようで、
あっさり断られてしまった。
しかし、そのことが本当に身を引いたことの証ともなり、後世の評価を上げた。
こうして、通説では羊飼いと言われる低い身分から身を立てて皇帝になった男は、
一農夫として生涯を終えた。
衰退へと向かっていたローマを救うため、天が地上に遣わしたかのような人物であった。
立身出世を遂げて歴代皇帝を超える専制君主となった男が、
晩年一農夫に戻ったのは何とも印象的である。
皇帝を専制君主にしてしまったという残念な部分はあるが、
天下を取った後道を誤った豊臣秀吉あたりとは器が違うと言えよう。