普仏戦争(ふふつせんそう)

[ヨーロッパ−近代]

プロイセンとフランスの間で戦われた戦争。 普墺戦争の勝利後プロイセンがドイツ統一を果たす上で フランスによる干渉が障害となっていたが、 プロイセン首相ビスマルクはモルトケら軍首脳と相談し、 スペイン王位継承問題を利用してエムス電報事件を起こして対立を煽り、 フランスによる宣戦布告を引き出した。 フランスはプロイセンに宣戦布告したが、 プロイセン影響下の北ドイツ連邦に加え距離を置いていた 南ドイツの諸侯もプロイセン側に加わって参戦し、 プロイセンでは国民皆兵制を採用し動員可能兵力が多かったこともあり、 兵力で劣勢に立たされた。 フランス軍はオーストリア軍と違い後装式のシャスポー銃を装備しており 少数ながら機関銃も持っていたが、 大砲が旧式であり鋼鉄製の後装式野戦砲を持つプロイセンに対し 兵器の面でもやや劣勢であった。 そのため緒戦こそフランスは勝利しザールブリュッケンを占領したが、 すぐに反撃されて劣勢となり、 セダンの戦いでは主力が降伏し皇帝ナポレオン3世まで捕虜となってしまった。 この敗北に怒った市民は暴動を起こし、 ナポレオン3世は廃位され臨時政府が設立された。 ビスマルクは勝利が確定した時点で講和しようとしたが、 モルトケや世論の反対により領土割譲を引き出すため戦いは続行された。 プロイセン軍はパリを包囲した上でメス(メッツ)にて残ったフランス軍を降伏させ、 ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の即位式を行いドイツ帝国を成立させた。 この後抗戦を断念した臨時政府はアルザス・ロレーヌの割譲と 賠償金を支払う条件で講和し終戦した。 パリでは講和に反対する市民がパリ・コミューンを設立し抵抗したが、 プロイセンの支援を受けた政府軍によって鎮圧され、 フランス第三共和政が成立した。
この戦争の勝利によってプロイセンは南ドイツ諸侯も自陣営に引き入れて ドイツ統一を達成したが、 領土割譲を強いられたフランスの恨みを買うことになった。 そのためビスマルクはロシア・オーストリアと同盟し イギリスの中立政策と合わせてフランスを孤立させて反撃を封じ、 フランスはヨーロッパ外交における優位性を失った。 またローマ教皇領に駐屯していたフランス守備兵が引き上げたため、 イタリア軍によってローマが占領されイタリア統一も(一部地域を除き)一応完成した。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る