[ヨーロッパ−近世]
フランスの哲学者・数学者。
官吏の息子として生まれたが、生まれつき母に似て病弱であった。
イエズス会の学院で学び、卒業後にはポワティエ大学で法学・医学を学んだ。
卒業後にはオランダに渡って軍人になりながら、マウリッツの近代的軍隊や
数学・自然科学を学んだ。
さらに刺激を求めて休戦中で戦闘が無かったオランダから30年戦争中のバイエルンへ移ったが、
学問で身を立てるためイタリア遊学後にフランスに帰国し、学者達と交友した。
さらに当時の先進国であったオランダに再び移住して哲学の研究を進めたが、
ガリレオ裁判の影響から「世界論」の公刊を断念した。
しかし、後に「省察」で神学者から無神論者の非難を受け、
ユトレヒト市では発禁処分を受けた。
老年になってからスウェーデンのクリスティーナ女王からの招聘を受けたが、
病弱だったデカルトは早起きの女王に合わせた結果風邪をこじらせて肺炎となり死去した。
デカルトは理論に重きを置き法則を演算から導き出す合理主義哲学の祖として知られる。
有名な「我思う、ゆえに我あり」も自己の存在について疑問を深めた結果導いた言葉である。
また自然科学を重視し、特に数学でも業績を残した。
特に有名なのは平面上の位置を表わすのに直交座標を導入したことで、
後の解析幾何学の端緒となった。
よって直交座標はデカルト座標とも呼ばれる。