ルイ=二コラ=ダヴー

[ヨーロッパ−近代]

フランス第一帝政の元帥。 「不敗のダヴー」と呼ばれた名将。 代々軍人を務めた下級貴族の子として生まれ、 パリの陸軍士官学校で学び卒業後騎兵連帯に所属した。 革命勃発後、貴族でありながら共和主義に賛同し、 連隊内の共和派を組織したが、 これが問題となり逮捕され軍籍を剥奪された。 しかし政情の変化によって軍籍に戻り、次第に優秀な指揮官として頭角を現した。 同時に裏切りを図る上官を砲撃したり、逮捕しようとするなどの過激な逸話も残っている。 ダヴー自身は熱烈な共和主義者であったが、 貴族出身であることが災いし、貴族士官追放令によって罷免された。 そのため郷里で隠棲し軍事研究をしていたが、 知人の助けもあり復職に成功、名将ドゼーの指揮下に入り親交を結んだ。 その後ドゼーの部下として各地を転戦し、 エジプト遠征の際にナポレオンに紹介され、 以後ナポレオンに忠誠を誓うようになった。 マレンゴの戦いには参加せず、そのためドゼーの死に立ち会うことは出来なかった。 その後ナポレオンの妹ろ結婚していた友人のルクレール将軍の妹と結婚し、 ナポレオンの側近に加わることとなった。 能力と勤勉な人柄でナポレオンの信頼を得ていたダヴーはナポレオンが帝位に就くと最若年の元帥となり、 第3軍団を任せられた。 その後の働きは目覚ましく、特にアウステルリッツの戦い、 イエナ=アウエルシュタットの戦いでは劣勢ながら善戦し、 勝利に大きく貢献し、その功績によりベルリン入城では一番乗りの栄誉を与えられた。 さらにワルシャワ公国総督、ドイツ方面軍司令官として辣腕を発揮し、 管理者としても有能な所を示した。 ロシア遠征に参戦し、ナポレオンに進言を行ったが、 その進言は聞き入れられずナポレオン軍は敗北した。 その後ハンブルクで北ドイツの守備を命じられ、 一年以上の抵抗の末、ナポレオンの退位後に降伏開城した。 即位したルイ18世により追放されたが、ナポレオンがエルバ島を脱出すると彼を支持し、 戦争大臣に任命された。 ダヴーは前線を希望したが、管理を任せられる人材が不足していたため止む無く引き受けることとなった。 そのためワーテルローの戦いに加わることは出来なかったが、 敗戦後に手持ちの軍で侵攻してきたプロイセン軍を破るなど辣腕を発揮し、 協定成立までパリを守り抜いた。 王政復古で全ての役職を剥奪されたが、 親交を結んでいたネイが裁判にかけられると弁護人としてパリに赴き、相変わらずの気骨を見せた。 その後名誉回復して元帥号を取り戻し、貴族院議員・パリ近郊の都市の市長などを務め、 最期は結核で死去した。
ダヴーはナポレオン皇帝即位時の元帥の中では最若年であったが、 近眼で眼鏡をかけ、背が低く若禿というあまり若々しさを感じさせないパッとしない外観であった。 反面能力は優秀で、激戦区に配置されながら不敗とも呼ばれる戦歴を重ね、 また方面軍司令官や戦争大臣として管理能力にも長けていた。 ナポレオンもダヴーの能力を評価し、戦略戦術に関して意見具申を許す数少ない人物にダヴーを加えていた。 性格は謹厳実直、共和制やナポレオンに対し狂信的とすら思える忠誠を示していた。 ただあまりにも厳格、また粗野で冷淡な部分が将兵からは嫌われ、敵視する同僚も多かった。 同じ元帥の中ではウディノ・ネイ・サン=シールらとは親しかったが、 ミュラ・ベルナドットといった俗物とは相性が悪く忌み嫌っていた。 このためマッセナのように戦域まるごと任せられることは無く、 ナポレオンを始め海外での評価が日本ほど高くない原因となっていると思われれる。

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