[ヨーロッパ−近代]
フランス革命期の政治家。
ロベスピエール・マラーと共にジャコバン三巨頭と呼ばれ、
過激分子であるジャコバン派の中では比較的穏健な右派を率いていた。
フランス東部のシャンパーニュ地方で裁判所の書記の息子として生まれた。
パリへ上京して弁護士となり、王室顧問会議付きの弁護士となったが、
革命が勃発するとこれに共感し、ジャコバン=クラブに加わる。
シャン=ド=マルスの虐殺事件の際に作成した請願文が問題となり、
一時イギリスに亡命した。
帰国後は最初ジロンド派、これに嫌厭されるとロベスピエールに近づき、
山岳派の有力者として活動した。
国王が襲撃された8月10日事件では民衆を扇動した中心人物となり、
その後ジロンド派内閣では山岳派に所属しながら司法大臣として起用された。
大臣として革命裁判所や公安委員会の創設に関わったが、
ジロンド派と接触して革命の収束を図ったものの、
工作に失敗して大臣を辞任した。
さらに友人のデュムーリエ将軍が
オーストリアに寝返ったことでさらに立場が悪くなり、
公安委員会からも退くこととなった。
ジャコバン派が政権を握ると、
革命の収束と恐怖政治の廃止を目指すジャコバン右派を形成したが、
東インド会社解散の際に横領が発覚して勢いを削がれた。
ジャコバン派内の最過激派であるエベール派の粛清では
ロベスピエールに協力したが、
直後にサン=ジュストに告発され、
ダントン自身も逮捕・処刑された。
処刑台へ連行される途中、
ロベスピエールの家の前を通りかかった際に
「次はお前の番だ」
と叫び、堂々とした態度で処刑されたと伝えられている。
ダントンは革命を率いた有能な政治家の一人であるが、
妥協を模索した故に信念の無い、また信用ならない人物と見做されてしまった。
それに加えて金に汚い面もあることが結局は命取りとなった。
ちなみにダントンを処刑したロベスピエールも、
ダントンの最期の言葉通り、同じ年に処刑された。