[ヨーロッパ−近世]
イングランドの軍人・政治家。
ピューリタン革命期に護国卿として事実上の国家元首となった。
ピューリタンの地主の子として生まれ、牧場を経営しながら判事となっていた。
ピューリタン革命が始まると議会派として参戦し、
当初の敗戦の後私財を投じて鉄騎隊を組織した。
議会派は民兵主体で質が低く国王派に対して劣勢であったことから、
鉄騎隊を中心とした制度改革を行い、
ニューモデル軍としてクロムウェルは司令官フェアファックスに次ぐ副司令官となった。
このニューモデル軍はネイズビーの戦いで国王派に大打撃を与え、
議会派勝利の原動力となった。
内乱終結後には独立派として穏健な長老派を追放し、
急進的な水平派を弾圧して中産市民を重視した政策を取るようになった。
反議会派の拠点であったアイルランド・スコットランドには総司令官として侵攻し、
何れも勝利した。
そして中産市民の支持を背景として議会を解散し、
自ら終身護国卿となって独裁政治を開始した。
その後は対外的には北欧・ポルトガル、さらに後にはフランスと同盟し、
スペインを攻撃してジャマイカなどを奪った。
国内では全国を11軍区に分けて軍政長官を派遣し、軍事独裁を行った。
オリバー=クロムウェルがマラリアで死去した後息子のリチャードが護国卿となったが、
父ほどの能力・カリスマは無く間もなく辞任に追いやられ、
国王派の反攻によって王政復古が為されることとなった。
クロムウェルは王政復古後には反逆者として死体を晒し首にされたが、
名誉革命後の現在では優秀な指揮官、あるいは独裁者と見られている。
クロムウェル自身は民主政治を志向していたらしいが、
結果として独裁政治しか出来なかった。
その点最初から民主政治を理解できず、
する気もなかったナポレオンより悲劇的であると言えよう。
市民革命と見られるピューリタン革命・フランス革命何れも独裁政治に落ち着いたことは
何とも皮肉なものである。