クリミア戦争(クリミアせんそう)

[ヨーロッパ−近代]

南下政策を推し進めたロシアとそれを阻もうとした諸国の間で戦われた戦争。 ナポレオン戦争以後オスマン帝国領であったバルカン半島でもナショナリズムが台頭し、 ギリシア独立後もボスニアやセルビアは世情が不安定で近代化も進まず オスマン帝国の弱体化を招いていた。 これに乗じてロシアは南下政策を進めこの地域の覇権を狙い、 イギリス・フランスの警戒と反発を招くことになった。 ロシアはバルカン半島の正教徒の保護を口実にオスマン帝国の反乱に介入したが、 この反乱軍は敗北を喫した。 その停戦交渉でロシアはオスマン帝国の友好国であったフランスの影響を排した上で スラヴ系商人への特権などを求めたが、 これに反発したフランスのナポレオン3世が国内カトリックの人気取りも考えてエルサレムの聖地管理権を手に入れ、 さらにオスマン帝国に軍事圧力をかけたため交渉は失敗に終わった。 この失敗を受けてロシアはオスマン帝国との国交を断交してバルカン半島への進軍を開始し、 イギリス・フランスはロシアの覇権拡大を阻止するため オスマン帝国側で参戦した。 バルカン半島での戦闘はロシア側で参戦しようとしたギリシア義勇兵が 英仏軍に阻止されたこともあって膠着し、 英仏はオスマン帝国の支援に徹しようとしていたが、 黒海沿岸のシノープでオスマン海軍が壊滅したのが「虐殺」と報じられて世論が硬化し、 本格的な派兵をし主力として戦うことになった。 当初は黒海沿岸を北上する予定であったが、 オーストリアの協力が得られなかったため計画を変更し クリミア半島の拠点セバストーポリを攻撃目標とすることにした。 英仏軍は地理や気候に疎く、ロシア軍は指揮での不備や装備・兵站の後進性が目立ち、 何れも決め手に欠き戦いは長期化した。 戦死以上に戦病死が発生する中で注目を集めたのが近代看護教育の母ナイチンゲールである。 最終的にはフランスの好意を得ようとしたサルデーニャの援軍も加わってセバストーポリは陥落したが、 直後にオスマン帝国のカルス要塞が陥落し、 英仏露何れも財政が限界を迎えたこともあって継戦を断念し、 パリで講和が結ばれた。 この講和によってオスマン帝国の領土が保全され、 ワラキア・モルダヴィア・セルビアの自治が認められ、 黒海の非武装化やドナウ川の航行の自由の保障が盛り込まれた。 妥協の末の実質白紙和平であったが、 この戦い以後列強の蜜月体制は崩壊し、 各々国益を求めて帝国主義の道をひた走ることになった。

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