コンスタンティヌス
[ローマ帝国]
- ローマ皇帝コンスタンティヌス1世。
本名フラウィウス=ヴァレリウス=アウレリウス=コンスタンティヌス。
後に大帝と呼ばれる。
皇帝コンスタンティウスの長男であり、順調に軍功を重ね、
父の死後軍隊によって後継者として支持された。
彼の配下の軍団は正帝として推したが、東の正帝ガレリウスは副帝に留め置いた。
その後内乱となりガレリウスや先帝マクシミアヌス、
リキニウスといったライバルを次々と打ち破り、ローマ帝国唯一の皇帝となった。
その最中キリスト教徒達と近付き、
ディオクレティアヌス以来の迫害を終わらせ、
キリスト教を公認した最初の皇帝となった。
伝説では内乱の最中十字架を旗印として勝利したことになっているが、
実際には彼自身はミトラ教徒であり、
そこまで積極的にキリスト教を利用しなかったようである。
後にローマの旧勢力を嫌ってビザンティウムに新首都コンスタンティノープルを建設した。
この街が後にビザンティン帝国およびオスマン帝国の首都として栄えることになる。
この街で概ねディオクレティアヌスの路線を継承して統治を行ったが、
農民の移動を禁止する法を作り、
キリスト教と共に中世ヨーロッパの封建制の先駆けとなった。
また、先妻の子クリスプスと妻ファウスタの仲を疑って両人を殺害し、
父の後妻の子である弟達を粛清するなど、猜疑心の強い独裁者の顔も持っていた。
死後帝国は3人の息子に分け与えられたが、息子達は互いに争い、
次男のコンスタンティウスが兄弟の死によって唯一の皇帝となった。
コンスタンティヌスはキリスト教の公認によって大帝と呼ばれたが、
最大の業績はコンスタンティノープルの建設であろう。
ビザンティン帝国1000年の繁栄はここから始まったと言える。
しかし、弟や息子の殺害、農奴制の先駆けなど、感心できない面も多い。
良い面も悪い面も「大帝」であると言えよう。
- ローマ皇帝コンスタンティヌス2世。1. の長男。
父の死後弟コンスタンティヌス2世・コンスタンスと領土を分け合った。
コンスタンティヌスはブリタニア・ガリア・ヒスパニア、
すなわち帝国の西部を支配したが、弟と対立し、
コンスタンスの支配するイタリアに侵入して敗死した。
父と似たのは権力欲だけであった。
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