[ビザンティン帝国]
ビザンティン帝国パレオロゴス朝の皇帝。
東ローマ=ビザンティン帝国の最後の皇帝である。
なお一般には11世とされるが、
歴代皇帝の数え方によっては12世・13世とされることもある。
コンスタンティノスは帝国末期の名君マヌエル2世の四男として生まれた。
帝位に遠い下の子であったためか、
父の姓パレオロゴスではなく
セルビア出身の母の姓ドラガシュをギリシア語読みしたドラガセスを姓とした。
長じて兄テオドロス2世・弟トマスと共に帝国の飛び地である
ペロポネソス半島を治めるモレア専制公となった。
その後コンスタンティノスはラテン系アカイア公国の街パトラを占領するなど
勢力拡大に貢献した。
しかし強大なオスマン帝国には及ばず屈服を余儀なくされている。
長兄の皇帝ヨハネス8世が死去するとコンスタンティノスと
弟デメトリオスの間で継承権争いとなったが、
結局コンスタンティノスが皇帝となった。
コンスタンティノスはオスマンのムラト2世と和平を結んだが、
その死後息子のメフメト2世の代になると再び帝国は侵略の危機に見舞われた。
コンスタンティノスは東方正教会とカトリックの統合によって
西欧の支援を得ようとしたが、
国内の反対が強く、望んだほどの支援も得られず失敗に終わった。
遂に都コンスタンティノープルがメフメト率いるオスマン軍の攻撃を受けるが、
コンスタンティノスは篭城して抵抗し、
最後の陥落時に戦死した。
その際、皇帝の衣装を脱ぎ捨て親衛隊と共に敵陣に突撃して討ち死にしたと言われる。
死後遺体は数日晒されたが、その後最高の栄誉をもって埋葬された。
コンスタンティノスは滅亡寸前の状態で皇帝になったため業績は上げられなかったが、
最後まで帝国の為に戦って殉じ、その死に様によって帝国の名誉を守った。
最後の君主というものはその滅亡の原因となるだけあってダメっぽい人物が多いが、
ビザンティン帝国は最後の皇帝に恵まれたと言えるだろう。
その最期のため、死後アーサー王のように復活して帝国を再興させる伝説が生まれたり
聖人と見られたりもした。
西洋でも判官贔屓はあるのである。