[ヨーロッパ−近代]
プロイセンの軍人・学者。
「戦争論」の著者として知られる。
フルネームはカール=フィーリプ=ゴットリープ=フォン=クラウゼヴィッツ。
ポーランド系の退役軍人の子として生まれ、
12歳でユンカー(旗手を務める少年兵、下士官)として歩兵連隊に入隊した。
家が貧しかったため父が嘆願し、異例の若さでの入隊であったという
(通例ユンカーは14〜16歳)。
フランス革命戦争に旗手として参戦し、准士官、士官である少尉と昇進した。
講和が結ばれると自らの教養の欠落を自覚して軍務の合間に読書に励むようになり、
勉強熱心なことが連隊長に認められてベルリンの士官学校に入学した。
そこでは教官として赴任していたシャルンホルストに師事して目をかけられ、
軍事に限らず歴史・文学・数学などの教養も幅広く学んだ。
卒業後はシャルンホルストの推薦でアウグスト親王の副官となり、
宮廷に出入りするようになった。
その際に後に妻となる女官のマリー=フォン=ブリュールと知り合い、婚約した。
イエナ=アウエルシュタットの戦いに大隊長となった親王の副官として参戦したが、
敗れて親王と共に捕虜となった。
講和によって帰国するとシャルンホルストに招かれケーニヒスベルクに赴任し、
さらにアウグスト親王の副官からベルリンの陸軍省へ異動となった。
陸軍省ではシャルンホルストの下で軍事改革に取り組んだ。
シャルンホルストがフランスに目を付けられ転属した後、
新設された陸軍大学校の教官となり、
皇太子の進講などを行った。
また婚約していたマリーとも結婚した。
マリーは名門出身で女官長を務めていたため、
ポーランド系の貧乏貴族で下士官上がりのクラウゼヴィッツとの結婚には反発もあったが、
ルイーゼ王妃が支援し結婚に漕ぎ着けた。
プロイセンがフランスの圧力に屈して同盟すると、
他の改革派軍人と共に軍を辞めて亡命し、
ヴィルナ(現リトアニアのヴィリニュス)に赴きロシア軍に仕官した。
ロシア軍では中佐参謀として作戦に加わり、
焦土作戦によるフランス軍撃退に貢献し、
またフランス側で参戦していたプロイセンと交渉し交戦の回避に成功した。
戦後プロイセンに帰国したが、
ロシア亡命が国王の不興を買い軍務復帰できなかったため、
やむを得ずシャルンホルストによってロシア軍将校の資格でブリュッヘル軍の司令部付となった。
対フランス戦にも参戦したが、シャルンホルストが戦傷によって死去し、
クラウゼヴィッツはグナイゼナウと共にその追悼の辞を書いた。
フランスに勝利するとようやく軍への復帰を許され、
大佐に昇進し第三軍団参謀長となった。
その後ナポレオンのエルバ島脱出によって再び戦争となり、
ワーテルローの戦いにも参戦した。
戦後コブレンツ司令官となったグナイゼナウの参謀長となったが、
王を始め軍の保守反動派が盛り返し、
クラウゼヴィッツら改革派は不満を抱えつつ勤務することとなった。
少将に昇進して陸軍大学校の校長となったが、
改革派であったことから権限に制約を受け、
やはり腕を振るう機会を奪われ続けた。
そのためクラウゼヴィッツは妻マリーと共に軍事研究に専念し、
後の「戦争論」を始めとする著作を執筆した。
晩年ポーランドに反乱の機運が高まり引退していたグナイゼナウが司令官に任命され、
クラウゼヴィッツもその参謀長として軍務に復帰した。
反乱は鎮圧されたが、
グナイゼナウはコレラに感染し病没し、
クラウゼヴィッツも復員直後に発症して急死した。
死後戦争論などの著作が妻マリーによってまとめられ、遺稿として出版された。
クラウゼヴィッツは戦争論の著者として有名だが、
本業の軍務でもグナイゼナウの参謀を務めたかなりの大物で、
さらにロシアに亡命してまでナポレオンと戦った硬骨漢でもある。
しかしプロイセンの保守反動路線によって日陰に追いやられ、
皮肉にもそれによって研究と著作に専念し大作を残すことになった。
突然の死によって戦争論は不完全なものとなってしまったが、
それでもその内容は後世の軍事に影響を与えることになった。