[中国−後漢末・三国]
後漢末・三国時代の政治家。字は子布。
孫呉の文官筆頭であったが、
剛直な性格で主君の孫権と度々対立したためか最高位の丞相にはなれなかった。
徐州の出身で若い頃から勉学に励み名声を得ていたが出仕は避け、
徐州刺史の陶謙が推挙しても応じず投獄されたこともあった。
董卓らによって動乱の時代となると混乱を避けて江南に移住し、
孫策が挙兵すると参謀として招かれこれに応じた。
孫策は大いに喜んで厚遇し、家族同然の付き合いをし、
また同時期に仕えた張紘と共に政治軍事の一切を任された。
孫策が死去する際には周瑜と共に後事を託され、
「もし仲謀(孫権の字)が任に堪えられないようなら貴方が政務を取り仕切ってほしい」
とまで言われた。
その後は落ち込む孫権を叱咤して周囲に当主として認めさせ、
政務を支えて「張公」と呼ばれ信任された。
曹操が南進して荊州を降伏させると、
張昭は他の多くの群臣と共に兵力差から降伏を勧めたが、
孫権は周瑜・魯粛の意見を容れて抗戦を決断し、
軍を率いた周瑜は赤壁で曹操軍を打ち破った。
孫権はこのことを根に持っていたらしく、
皇帝となった際周瑜を称える一方張昭には降伏を唱えたことをあげつらい、
張昭を大いに恥じ入らせさせた。
その後も孫権の傍で支え続けたが、
孫権が魏によって呉王に封じられた際に群臣によって丞相に推挙されたが、
孫権はこれを退け孫邵、その死後は顧雍を任じ、
張昭は丞相にしなかった。
遼東の公孫淵が呉への服属を願い出ると張昭は信用ならないとして反対したが、
孫権は聞き入れず使者を送った。
意見が聞き入れられなかった張昭は家に閉じこもり、
意固地になった両者が門の内外を土で固めて塞ぐまでに至ったが、
その後使者が殺されると孫権は自らの不明を門前で詫び、
張昭の息子の執り成しで和解した。
その後81歳の高齢で死去した。
孫策は孫権に「内の事は張昭に」と言い残したと言われる。
その言葉通り孫権を主に内政面で支えた
(一説には弟の孫翊を擁立しようとしたとも言われるが)が、
曹操への降伏を唱えたことからケチが付き、
さらに剛直な性格から度々孫権と対立し、
そのため最高位の丞相になれなかったとされる。
公孫淵服属の際には子供じみた喧嘩になったが、
激しやすく暴走しがちな孫権にはそんなご意見番が必要だったのかもしれない。
図らずも張昭の死後二宮事件が勃発し呉の宮廷が大混乱に陥り
陸遜始め多くの名臣が失われたことで、
張昭のような口うるさくとも直言できる存在の大事さを思い知らされることになった。