陳平(ちんぺい)

[中国−秦・楚漢]

劉邦に仕えた軍師・政治家。 張良と共に劉邦の傍で数々の献策を行い中華統一に貢献した。 美丈夫ではあったが、あまり裕福な生まれでは無く、 兄陳伯の援助で勉学に励んでいた。 家の仕事を手伝わないことで兄嫁に文句を言われたが、 陳伯は陳平の味方をし嫁を離縁したと言われる。 成人した陳平は葬儀の差配などで地元の有力者の目に留まり、 5回夫と死別していたその孫娘と結婚し、 有力者の後援で交際を広め名声を得た。 秦末動乱が起こると最初は魏王の魏咎に仕えたが、 進言が取り上げられない上に讒言があったため逃亡し項羽に仕えた。 ここでは殷王司馬コウを降伏させる功績で都尉となったが、 その司馬コウがあっさり劉邦に鞍替えしたため 怒った項羽に誅されそうになり再び逃亡した。 道中盗賊から身を守るため衣服を脱ぎ棄てるなど苦労の末、 劉邦の部下となっていた旧知の魏無知を頼って身を寄せた。 その伝手で劉邦と面会すると大いに評価されて都尉に任じられ、 劉邦と同じ馬車に陪乗して軍の監察役となった。 新参者の厚遇は古参の将に不満を持たれ、 度々主を変えたことや賄賂を取っていることを非難された。 これに疑心を覚えた劉邦は推挙した魏無知を問いただすと 「今は乱世故徳行よりも才知が必要と思い鬼謀の士を推挙しました。」 と答え、陳平自身は 「魏咎も項羽も進言を聞き入れてくれなかったため去りました。 また身一つで漢王の元に来たため持ち合わせが無く 金品を受け取らなければどうにもなりませんでした。」 と答えたため、劉邦は納得して謝罪し監察役を続けさせ、 古参の将も文句を言わなくなった。 劉邦の側近として張良が主に戦略を担当し行動指針を示したのに対し、 陳平は主に謀略を担当した。 劉邦が籠城した城が項羽に包囲され危機に陥ると、 陳平は項羽の猜疑心が強いことを利用して偽情報を流し、 敵の使者を騙して軍師の范増を陥れ、失脚・憤死に追いやった。 しかし目の前の包囲は崩せずいよいよ落城目前となると、 影武者で敵の目をくらませ脱出する策を献策し、 影武者となった紀信や城に残った周苛・樅公の犠牲と引き換えに脱出に成功した。 また韓信が斉の仮王を要求したときや項羽と和議が結ばれたときなどは 張良と共に進言し、韓信の斉王即位や和議の破棄を行わせた。 劉邦が勝利すると侯に任じられ、 その際自分を推挙した魏無知に言及し恩賞が与えられるよう取り計らった。 劉邦が匈奴との戦いで包囲され窮地に陥ったが、 陳平の策略で包囲が解かれ帰国することが出来た。 匈奴の主である冒頓単于の正妻に 「単于が中華を攻め落とすと美女が単于のものになるかもしれません (=貴女のご寵愛が危うくなります)」 と吹き込んだと伝えられている。 劉邦の死後呂后が権勢を握るとこれに表面上従い、 右丞相(首相相当)となると酒色に溺れたように振る舞い警戒されないようにした。 呂后が死去すると周勃や陸賈と共に図って挙兵し、 呂氏を滅ぼして劉邦の子劉恒(文帝)を帝位に就けた。 その後左丞相(副首相)、次いで右丞相となり、間もなく死去した。
陳平は謀略に長け劉邦の天下を支えたが、 それ故同僚の張良と比べて陰鬱な印象が強く、 また賄賂を取るなど素行も良くなかった。 それでも劉邦には献身的に仕え、 その死後も劉氏の政権奪還に貢献し、 自分を推挙した魏無知の恩を忘れないなど義理堅い面もあった。 その才知は天下泰平となっても発揮され、 右丞相となった周勃は自分の才が陳平に遠く及ばないと考えて辞任し、 結局陳平が再び筆頭の右丞相に返り咲くことになった。 さらに後世智謀の士の代表として扱われ、 曹操は「陳平のように素行が悪くても才ある者」を求め触れを出したりしている。

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