チェーザレ=ボルジア

[ヨーロッパ−近世]

近世イタリアの政治家・軍事指導者。 ロドリーゴ=ボルジア (教皇アレクサンデル6世) の庶子で、 ローマのカエサル (イタリア語でチェーザレ) と区別してヴァレンティーノ公と呼ばれる。 スペイン系であるが父のいたイタリアで生まれ育ち、 若い頃からパンプローナ司教など教皇庁の要職を歴任した。 父が教皇となった後も大司教・枢機卿と出世していったが、 教皇軍最高司令官であった弟ホアンが殺害された (チェーザレに暗殺されたのではないかとも言われる) ことを切っ掛けに還俗し、 以前よりコネのあったフランス王から南仏のヴァランス公 (イタリア語でヴァレンティーノ公) の地位と領土を授かった。 また同時にナバラ王の妹シャルロット=ダルブレと結婚した。 その後即位したばかりのフランス王ルイ12世のミラノ侵攻に従い、 共にミラノへ入場した。 その直後、父である教皇と交戦状態となったイーモラとフォルリの領主 カテリーナ=スフォルツァと戦うため、 フランスの援軍と傭兵を率いて侵攻した。 チェーザレが一軍の将として戦ったのはこれが初めてであったが、 戦いに勝利し両都市を占領した。 そしてローマに凱旋し、父から占領した両都市の統治権と 教皇軍最高司令官の地位を授かった。 司令官となったチェーザレはその優れた手腕を発揮し、 事実上独立していた中部イタリアの諸都市を謀略あるいは軍事力を用いて 次々に陥落させ、さらにロマーニャ公の地位も得た。 フィレンツェのマキャベリと会ったのもこの頃である。 しかしその快進撃の最中配下の傭兵隊長達が反旗を翻し、 マジョーネ同盟を結んでチェーザレと敵対、 チェーザレ軍が敗れることとなった。 この危機に対し、チェーザレは父である教皇とフランス王の支援を元に 敵に揺さぶりをかけ、 一部と和睦交渉を行うなどして同盟が内部分裂するよう仕向けた。 止めはシニッガリアで偽の和睦交渉を持ちかけ、 油断した敵首脳を一斉に逮捕、率いていた軍も壊滅させた。 こうして危機を克服して順風満帆に見えたチェーザレだったが、 その直後父と共に重病に陥った。 当時は誤って毒殺用の毒を飲んでしまったとも言われたが、 現在ではマラリアではないかと考えられている。 父の死によってチェーザレは後ろ盾を失い、 さらに自身も熱病にあったため冷静な判断ができず、 政敵ジュリアーノと密約して教皇ユリウス2世としてしまった。 ユリウスは密約を反故にしてチェーザレを逮捕、 チェーザレは権力を失ったばかりか捕縛され、虜囚の身となってしまった。 関係が悪化したフランス王に代わりスペインの後ろ盾を頼ったが、 スペイン王は拒絶してスペインで逮捕・幽閉されてしまった。 2年後チェーザレは脱獄して妻の兄の治めるナバラに逃走し、 ナバラとスペインの戦いに参戦したが、 この戦いで戦死、一代の梟雄は呆気なく歴史の舞台たら退場してしまった。
チェーザレはイタリアの乱世の奸雄と呼ぶに相応しい人物である。 活躍期間は短いもののその間に中部イタリアに一大勢力を築き上げ、 イタリアの覇者にもならんとする勢いであった。 そしてその没落と共にその一大勢力も呆気なく瓦解してしまった。 マキャベリは彼を絶賛し冷酷さと威厳を併せ持つ理想の君主と見たが、 同時にその冷酷非情な謀略故極悪非道の人物として忌み嫌う人も多かった。 父もそうだが後に政敵が権力を握ったため実際以上に極悪非道にされたかのしれない。 そこはヴラド=ツェペシュと同様であろう。 日本では活躍期間は短いが信長や曹操に近いイメージだろうか。 ただ若くして退場してしまったので 政治家としての手腕はあまり発揮する機会が無かったように思う。

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