カミッロ=カヴール

[ヨーロッパ−近代]

イタリアの政治家。 イタリア王国成立の最大の功労者であり、 イタリア統一三傑の一人としてマッツィーニ・ガリバルディと並び称される。 フルネームはカブール及びチェッラレンゴ及びイゾラベッラ伯爵 カミッロ=パオロ=フィリッポ=ジュリオ=ベンソ (3つの爵位を持つこともあり非常に長い)。 カヴール侯爵家の次男として当時フランス帝国領であったトリノで生まれ、 長じてトリノ士官学校を卒業してサルデーニャ王国の軍人となったが、 自由主義思想に染まって除隊に追い込まれた。 その後スイス・フランス・イギリスなどを転々とし見聞を広め、 帰国して小村の村長として辣腕を振るった。 当初政治とは距離を置いていたが、 1848年革命でサルデーニャでも憲法が制定されると選挙に立候補し、 補欠で議員となり政治家としてのキャリアを開始した。 補欠議員ながら手腕を発揮して信望を獲得し、 2年後には保守的な王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と対立しつつも 農商務相に就任し、 さらにその翌年には海軍相と財務相も兼任して 第1次イタリア独立戦争の敗戦で疲弊した財政や軍の立て直しを行った。 その後一度内閣から外れてイギリス・フランスを外遊し、 帰国後議会で多数の支持を集め、王の反対を押し切って首相に就任した。 保守的な王は自由主義のカヴールとは対立したが、 イタリア統一、特にオーストリア領であった北イタリア獲得の野心を持っていたため、 政治外交の手腕に長けるカヴールを用いざるを得なかった。 現実主義者であったカヴールは急進的な革命には反対し、 自由主義路線ながら穏健な改革を進めたため マッツィーニら急進的共和主義者とは対立したが、 イタリア統一を望む多くのイタリア人の支持を集めることとなった。 またサルデーニャ単独でのイタリア統一は不可能であると考え、 外交によってイギリス・フランスといった大国の援助を受けるように行動した。 まずクリミア戦争では直接の利害関係は無かったが英仏側で参戦し、 講和会議でサルデーニャの国威を高めることに成功した。 次いでフランスとプロンビエールの密約を結び、 サヴォワとニースを割譲する代わりにフランスの支援を約束させた。 この密約がオーストリアに漏れると最後通牒を突き付けられ、 第2次イタリア独立戦争に突入した。 戦いはサルデーニャ・フランス側が優勢に進めロンバルディアを占領したが、 継戦を望まない英仏の思惑からフランスのナポレオン3世は単独講和し、 この裏切りに怒ったカヴールは首相を辞任するも翌年復職した。 結局戦果は中途半端ではあったがサヴォア・ニースを代償に 肥沃なロンバルディアを獲得し、 サルデーニャはイタリア諸邦の中で抜きんでた存在となり、 中部イタリア諸邦の住民投票による併合を実現させた。 ニース出身のガリバルディはこの割譲に怒り、 独自に義勇軍を集めて両シチリア王国を征服した。 カヴールはこれに対抗して占領地の住民に働きかけて住民投票を行わせ、 民意を盾にガリバルディに占領地のサルデーニャ王への献上を行わせた。 サルデーニャが中南部イタリアを併合したことでイタリアの大部分を得たことになり、 イタリア王国が成立したが、 カヴール自身はその直後に病死した。
カヴールはイタリア王国成立に最大の貢献をして後世 「神がイタリア統一のため地上に遣わした男」 と呼ばれた。 現実的な穏健自由主義者であったため、 保守的なヴィットーリオ=エマヌエーレ2世からも 急進的なマッツィーニ・ガリバルディからも嫌われていたが、 結局イタリア統一はカヴール主導で行われ、 その死後も路線は保持され続けた。

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