エカチェリーナ2世

[ヨーロッパ−近世]

ロマノフ朝ロシア帝国の女帝。 啓蒙専制君主の代表で「大帝」とも呼ばれる。 プロイセン軍人クリスティアン=アウグストの娘として生まれ、 ゾフィーと名付けられた。 後にロシア皇帝となるが、生まれはドイツ人である。 フランス人の家庭教師が付けられ、教養深い女性に成長した。 早世した母方の伯父がロシア女帝の婚約者だった縁もあり、 ロシアの皇太子妃候補としてロシアへ渡り、 ロシア正教に改宗して名をロシア風にエカチェリーナと改めた。 皇太子のホルシュタイン公ピョートルと結婚したが、 夫ピョートルはロシア文化に理解を示さず、 また知力や男性能力に障害があったこともあり、 夫婦仲は劣悪であった。 後の皇帝であるパーヴェル1世を始めとする子供達も実は愛人の子と言われている。 7年戦争の最中先帝の死により夫ピョートルが即位したが、 有利だった戦況を無視してプロイセンと白紙講和したことで国内の不満が高まり、 さらに国民の人気が高かったエカチェリーナやロシア正教を弾圧する動きを見せたため、 エカチェリーナ主導でクーデターを起こし、女帝として即位した。 エカチェリーナは当時の知識人に多くいた啓蒙思想の崇拝者で、 ロシアを近代化させるための改革に着手した。 しかし権益を侵される側の貴族は猛反対し、 本来受益者であるはずの農奴階級も無知のため改革に理解を示さず、 成果を挙げることが出来なかった。 また宮廷の内情を知らない庶民はロマノフ王家の血を引かない女帝に対する反感が強く、 プガチョフの乱を始めとするピョートルの僭称者による反乱が相次いだ。 これらの経緯から徐々に啓蒙専制君主から反動的な専制君主へと変貌していった。 対外的にはオスマン帝国との戦争によりクリミアを含むウクライナを獲得し、 またポーランド分割に参加して領土を拡大させた。 アメリカ独立戦争時にはイギリスの海上封鎖に対抗して 武装中立同盟を主導して植民地を援護したが、 フランス革命には脅威を感じ国内の引き締めと自由主義の弾圧を強化した。 晩年には息子パーヴェルと対立し、 息子を押しのけて孫を次代皇帝として即位させようとしたが、 実現する前に脳梗塞で死去した。
エカチェリーナはロマノフ家の血を引かない外国人であったにも関わらず、 後に大帝と呼ばれる皇帝になった。 特に対外的な領土拡大により、ロシアを真の大国と呼べる地位に押し上げた。 一方国内改革には失敗し、当初目指していた啓蒙専制君主にはなり切れず、 反動政治家へと変貌してしまった。 これはエカチェリーナの資質と言うより、 ロシアの業の深さを示しているように思えてならない。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る