エジプト遠征(エジプトえんせい)

[エジプト・ヨーロッパ−近代]

ナポレオン率いるフランス軍によるエジプトへの遠征。 ナポレオンは敵対していたイギリスを牽制するため、 イギリス本国と植民地インドの中継地点である エジプトへの遠征を総裁政府に提案した。 イタリア遠征の成功で人気を集めていたナポレオンを疎ましく思っていた 総裁政府はこれを遠ざける機会と見て了承し、 遠征軍を乗せた艦隊がエジプトへ向け出港した。 当時エジプトはオスマン帝国の支配が弱まり、 奴隷出身兵であったマムルークが事実上支配していたが、 フランス軍はマムルークからのエジプト開放を旗印に侵攻を開始した。 フランス軍はアブキールに上陸して大都市アレクサンドリアを占領し、 さらにカイロ近郊でマムルーク軍を撃破した。 この戦いはピラミッドの戦いと呼ばれ、 ほぼ同数のマムルーク軍相手に圧勝し、 瞬く間にエジプト全域を支配した。 しかしこれに怒ったオスマン帝国は対仏大同盟に参加し、 海軍がネルソン率いるイギリス地中海艦隊に敗れたことで補給線が断たれ、 さらに統治に失敗して暴動を招き、 加えて進軍したシリアでは軍内でペストが流行して多くの兵が戦病死し、 とフランス軍は追い詰められていった。 そしてフランス本国がオーストリア中心の同盟軍に攻撃されると ナポレオンは遠征を断念し、 少数の側近のみを連れて将兵を見捨てる形で脱出して本国に帰還した。 残された将兵はクレベールに率いられ抵抗を続けたが、 クレベールは暗殺され、 生き残りはイギリス・オスマン帝国に降伏した。
エジプト遠征自体は失敗に終わったが、 後世には大きな影響を及ぼすことになった。 一つ目は遠征軍に同行した学術調査団によるロゼッタ・ストーン発見である。 このロゼッタ・ストーンによって 古代エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)解読が可能となり、 エジプト考古学の進展に貢献することになった。 二つ目はムハンマド=アリーの台頭である。 エジプトでは戦後熾烈な権力闘争が行われ、 オスマン帝国軍に加わっていたムハンマド=アリーがのし上がり、 総督となって実権を握り、後のエジプト独立の切っ掛けとなった。

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