[ヨーロッパ−近代]
ナポレオンが大陸封鎖令に従わなかったロシアに対して実施した遠征。
ロシアでは第2次世界大戦の大祖国戦争に比して1812年祖国戦争と呼ばれる。
(ちなみにイギリス・アメリカでは1812年戦争は米英戦争を指す。)
ナポレオンが対イギリス経済封鎖として発令した大陸封鎖令であるが、
イギリスの工業製品と農産物市場に依存していたロシアには
到底従えるものでは無かった。
そのためナポレオンはロシアに対する制裁としての遠征に踏み切った。
遠征軍は総兵力60万を超えるヨーロッパでは空前の規模であったが、
度重なる戦役の影響で兵の質は低下し、
またフランス以外の同盟軍の士気も低かったと言われている。
対するロシアの動員可能兵力は当初40万程度であったが、
戦役中に規模を拡大させ秋には90万程度になっていた。
侵攻は6月に始まったが、ロシア軍を率いたバルクライは会戦を避け、
退却を繰り返す焦土戦術を実施した。
この戦術はロシア宮廷の理解を得られずバルクライは解任されたが、
後任のクトゥーゾフも焦土戦術を続行し、
モスクワ近郊のボロジノで勝てなかったロシア軍は旧首都のモスクワすら明け渡した。
だが撤退時にモスクワ市街を焼き払ったことでフランス軍が補給が絶え、
退却を余儀なくされた。
撤退は凄惨を極め、
馬、次いで大砲と荷馬車を失ったことで部隊はまともな支援を受けられなくなり、
ロシアの冬の厳しさも相まって死者・落伍者が相次いだ。
ナポレオンはミュラに後事を託して帰国したが、
ミュラは職務を放棄して脱走し、
敗残兵はウジェーヌが率いて撤退を完了させた。
結局遠征軍の過半数が死亡し、無事に撤退できたのは10分の1にも満たなかった。
この遠征の失敗でフランス軍はほぼ壊滅状態となり、
ナポレオンが没落する直接の引き金となった。
戦後ナポレオンは大陸軍の再建を図るが、
結局劣勢を覆すことは出来ず退位に追い込まれた。
一方ロシアも国内が戦場となったことで
民間人も含めるとフランス軍と同等以上の死者を出したが、
フランスとの直接対決に勝利したことで
反フランス諸国を主導する立場を維持することになった。