ビザンティン帝国(ビザンティンていこく)

[ローマ帝国・ギリシア−中世・中東−中世]

テオドシウス大帝の死後息子達に分割された帝国の内、 アルカディウスに与えられた東側の領域、 すなわち東ローマ帝国のことを指す。 他にビザンツ帝国・ギリシア帝国とも呼ぶ。 正式には西ローマ帝国の滅亡後は唯一の「ローマ帝国」なのだが、 実際には古代ローマ帝国とは異質な国なので、 首都の古名ビザンティウムからとったビザンティン・ビザンツ、 あるいはギリシア人世界の帝国であるギリシア帝国と、別名の方が実態に近い。 西ローマが内乱とゲルマン人によって滅びたのに対し、 東は外交と経済力で生き延び、 ユスティニアヌス大帝の時代にはかつてのローマ帝国領をほとんど回復するまでになった。 しかし、内部では国是であるキリスト教の解釈を巡って対立し、 西側はおろか本来の領土であるシリア・エジプトをも敵対的にさせてしまった。 最終的には新興勢力であるイスラム教徒によってこれらの領土を失ったものの、 首都コンスタンティノープルで防ぎ止め、 バルカン半島と小アジア(アナトリア)を領土とする帝国になった。 その後キリスト教の布教に聖像(イコン)を用いるかどうかで国内に深刻な対立を招いたが、 最終的にイコン容認派が勝利し、東ヨーロッパを中心にギリシア正教が広まった。 結果として、西ヨーロッパが中世暗黒時代を迎える中、 首都コンスタンティノープルは長安・バグダッドに次ぎ、 ヨーロッパでは圧倒的な大都市として発展した。 10世紀頃マケドニア朝時代に最盛期を迎え、 最強と呼ばれる皇帝バシレイオス2世は近隣の敵対勢力であったブルガリアを征服した。 この帝国は極端に首都コンスタンティノープルに機能が集中した国であった (定まった首都が無かった神聖ローマ帝国とは対照的である) が、このマケドニア朝時代には軍管区制(テマ制)として各地を統治する将軍に強い権限を与え、 地方の発展を促した。 皇帝も節度使に滅ぼされた中国の唐と違ってよく地方をまとめ上げた。 しかし、やがて宮廷内の対立、トルコ系遊牧民の勢力拡大によって衰退し、 当時最大の敵であったセルジューク朝トルコに対抗するため十字軍を提唱した。 しかし、所詮暗黒時代の西ヨーロッパの兵は帝国から見れば「野蛮人」であった。 程なく十字軍国家とは袂を分かち、またベネツィアなどのイタリア都市の発展により ギリシア商人が圧迫され、西ヨーロッパとの関係は険悪なものとなった。 ついに内乱で親西ヨーロッパであった皇帝イサキオス2世とアレクシオス4世が殺害されると、 十字軍がコンスタンティノープルを攻撃し、帝国は一旦滅亡した。 帝国の残存勢力は皇族であったテオドロスを中心にまとまり、 十字軍の隙を突いて首都を奪回、摂政ミカエルが皇帝となって最後のパレオロゴス朝が生まれた。 しかし、十字軍の略奪は凄まじいもので、ビザンティン帝国は最早強国では無くなっていた。 西からの再度の征服はミカエルがシチリアで住民反乱を誘発して防いだものの、 アナトリアで勢力を拡大したトルコ系勢力、 とりわけそれをまとめ上げたオスマン朝に対しては防戦一方となり、 やがて1453年、オスマン朝の「征服王」メフメト2世によってコンスタンティノープルは陥落し、 帝国は滅亡、1000年以上にわたる歴史に終止符を打った (とは言え、中華帝国と違って皇室は何度も交代しているのだが)。
ビザンティン帝国は、西ヨーロッパが教会の抑圧によって暗黒時代を迎える中、 イスラム帝国と共に古代ローマの遺産をよく守った「偉大なる帝国」であった。 首都コンスタンティノープルでは文化が大いに発展し、 庶民が神学論議を行えるほど教育が普及していた。 役人も血筋よりも実力主義で、感覚的には中国の士大夫に近かった。 反面、非常に保守的でビザンティン帝国独自の進歩はあまり見られなかった。 とりわけ、農業技術の停滞は致命的で、帝国衰退の主要因の一つと言われている。 最後はオスマントルコに滅ぼされたが、その遺産はトルコ、 交流が深かったイタリアやロシアに残され、 オスマントルコ帝国ではその首都が、 ロシア帝国ではローマ帝国の後継者としての自負が発展の原動力となり、 イタリアでは伝えられていたローマ時代の文化・技術がルネサンスを呼び起こしたのである。 その影響力を考えれば、間違いなく「偉大なる帝国」であったのである。
しかし、文化の成熟ぶりといい外敵に対しての悩ませられ方といい、 さらには最後には発展した西欧に悩まされるところまで、 ヨーロッパよりは中華帝国によく似ている。

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