[ヨーロッパ−中世]
中世のイングランド王エドワード3世の長子。
父より先に死去したため王にはならなかったが、百年戦争の英雄として有名である。
若い頃から遠征で留守がちな父の代理を度々務め、
やがて大陸での戦いにも加わるようになった。
自ら兵を率いるようになると、ウェールズ長弓兵を中心としたイングランド軍を巧みに使い、
フランス軍相手に連勝を重ね、ポエティエでは優勢なフランス軍相手に勝利した上
フランス王ジャン2世を捕虜にするという武勲を挙げた。
また、捕虜となったジャン王に対し、紳士的に振舞って名声を高めた。
これらの戦果から後の停戦交渉でフランス南部の広大な領土を手に入れた。
後カスティリャの内戦にペドロ残酷王側に立って介入し、
エンリケ2世側についていたデュ=ゲクラン率いるフランス軍相手に勝利した。
しかし、この頃から太子は病気がちになり、運命は暗転していく。
度重なる戦役で軍事費が嵩んだものの、ペドロは約束した報酬を払わなかったため
領内に重税を課し、貴族や民衆の不満が高まった。
これがフランスの介入を招き、対フランス戦争が再開されることとなった。
しかし病に倒れた太子はまともに兵を指揮することができず、
さらにリモージュでは住民を虐殺して汚点を残してしまった。
結局領土の大部分を失ってイングランド本国に帰還するはめになった。
その後イングランドでは実権を握っていた弟のランカスター公に代わって国政改革に着手したが、
体調は回復せず、まもなく病死した。
エドワード黒太子は歩兵・弓兵を中心としたイングランドの軍組織が
騎士中心のフランス軍に勝っていたとは言え、百年戦争で連戦連勝した名将である。
また、騎士道精神でも知られた好漢であった。
しかし、病のため戦果も名声も失ってしまい不幸な晩年を送った。
本人は不幸であったが、その悲劇故に後世余計に名を残すこととなったとも言える。
「黒太子」の名は後世用いられたものであるが、その由来は諸説あるものの、
黒い鎧を着用していたためという説が有力である。
この鎧は当時最新鋭であったプレートメイルであると言われている。
プレートメイルは以前から使われていた鎖を編んだチェインメイルに対し、
板金を張って補強したものである。
当時の鎧は鍛造した後のいわゆる黒皮状態 (表面を磨いていない黒っぽい状態) で、
後世現れた表面を磨いて武器を滑り易くした「白い鎧」に対して「黒い鎧」と呼ばれた。
エドワード黒太子もこの「黒い鎧」を用いていたと考えられている。