[ヨーロッパ−近代]
フランス第一帝政の元帥で、ナポレオンの参謀長。
工兵司令官の庶子として生まれ、工兵学校で学んだ後、軍に入隊した。
アメリカ独立戦争に参戦し、功績を挙げて大佐にまで昇進した。
革命が起こると少将に昇進し、国民衛兵の参謀長となったが、
王の幽閉後は王と親し過ぎると見做され軍務を解任された。
しかし革命軍は有能な士官が不足し各地で苦戦していたため、
ベルティエも軍務に復帰した。
ナポレオンがイタリア方面軍司令官となるとその参謀長となった。
ナポレオンは戦略戦術に優れいわゆる参謀を必要としなかったが、
ベルティエは事務能力に長け、理想的な補佐役として高く評価された。
エジプト遠征にも従軍し、エジプト脱出、
その後のブリュメールのクーデター、
第二次イタリア遠征でもナポレオンに従った。
ナポレオンが皇帝になると帝国元帥に列せられ、
各地で功績を挙げてヴァランジャン公爵、ヌーシャテル大公爵、
ヴァグラム大公爵に叙せられた。
またバイエルン王の姪と結婚し、三人の子をもうけた。
このようにナポレオンの躍進と共にベルティエも昇進していったが、
ロシア遠征ではナポレオンと意見を衝突させ、遠ざけられるようになった。
ナポレオンはベルティエの補佐役としての実務手腕は評価していたが、
戦術や指揮能力は評価しなかったようである。
ナポレオンが退位に追い込まれるとルイ18世に従った。
しかしそのナポレオンがエルバ島を脱出すると進退に窮し、
投身自殺をしたと言われる。
ただし事故死や暗殺という説もあり、その死の真相は不明である。
ベルティエはナポレオンの躍進を支えた優れた参謀長であった。
ただし後世や同時代のプロイセンの参謀とは異なり、
業務内容は伝令や補給の手配などの事務作業が中心であった。
また兵士としては勇敢であったと伝えられるが、
指揮官としてはあまり有能ではなく戦術ではミスを犯すこともあった。
そしてそれ以上に人間関係での軋轢が致命的で、
特にダヴ―との諍いで作戦を台無しにさせかけたこともあった。
またネイの部下であった後の兵学者であるジョミニを警戒して冷遇し、
フランス軍から追い出してロシア軍にみすみす手渡してしまった。
名参謀ではあったが、名将にはなれない男であった。
それでもその手腕は得難いもので、
死後ワーテルローの戦いではスールトが代わりに参謀長となったが、
伝令を一人しか出さなかったため途中で事故を起こし連絡が出来なかった。
ナポレオンは
「ベルティエなら(不測の事態に備えて)1ダースの伝令を出しただろう」
と嘆き、
ベルティエの異能ぶりを後世に伝えることとなった
(参謀制度が未整備の当時としてはだが)。