[ヨーロッパ−近代]
フランス第一帝政の元帥。
後にスウェーデン王カール14世ヨハンとなり、現代まで続くベルナドッテ朝の始祖となった。
フランス南部で第三身分の平民である事務弁護士の末っ子として生まれ、
修道院で初等教育を受けた後法律家の見習いとなった。
しかし父の死で経済的に厳しくなったため、海軍に一兵卒として入隊した。
やがて軍曹に昇進し、スマートな風采から「美脚軍曹」と呼ばれ人気があった。
また連隊長に目をかけられ重要な任務を任されるようになり、
革命勃発後に平民出身の下士官としては最高位の連隊付副官となった。
やがて王国軍が国民軍へと再編されると、
陸軍に転じ中尉としてライン方面軍に組み入れられた。
ここでベルナドットは戦闘を重ねながら特に部下の規律を保つ能力を発揮し、
上官に認められて将軍にまで昇進した。
しかしコブレンツ総督を務めている最中、略奪を行ったと新聞に報じられてへそを曲げ、
パリでの抗議を訴え、これを退けられると退役したいとまで言い出した。
そこで難儀な厄介者の相手を嫌った総裁カルノーにより、
ナポレオン率いるイタリア方面軍の援軍としてイタリアに送られた。
ベルナドットは冬のアルプスを踏破してミラノに赴いたが、
あまり歓迎されず不満を貯めることになった。
それでもナポレオンの配下の将として転戦し、配下の規律の良さで現地住民の人気を得たが、
ナポレオンとはそりが合わず互いに反感を抱くようになった。
戦いが終息に向かうと総裁政府内で政争が繰り返されていたパリへ赴くが、
その政争とは距離を置き専ら社交界でスタール夫人などの知遇を得ていた。
その後短期間のイタリア方面軍司令官を経てウィーン駐在大使となったが、
ウィーンでは元敵国軍人として終始警戒され、
大使公邸に革命の三色旗を掲げたことが切っ掛けで起こった暴動に巻き込まれ、
と散々な目に合ったあと帰国した。
帰国後しばらくは無役であったが、
その頃ナポレオンの兄のジョゼフと親睦を深め、その縁でジョゼフの妻の妹であるデジレ=クラリーと知り合った。
デジレはナポレオンの元婚約者であったが、ナポレオンはジョゼフィーヌとの政略結婚のため婚約破棄をしていた。
ベルナドットはデジレと結婚し、ナポレオンの(扱いに困る厄介な)縁者となった。
その後前線司令官を務めている最中に対仏大同盟との戦争が再開されたが、
劣勢を強いられたストレスで健康を害し、パリへと戻った。
ここでもやはりベルナドットは政争と距離を置いていたが、
実力を買われていたため陸軍大臣に任命され軍の立て直しを任された。
その任を着実にこなしはしたものの、他の閣僚たちとは対立し、陸軍大臣の任を解かれた。
ブリュメールのクーデターでも傍観者に徹し、
政権を握ったナポレオンによって国務院議員・西部方面軍司令官に任命された。
だがナポレオンとの不仲は続き、周囲はナポレオンの有力なライバルと目していた。
ベルナドット自身はナポレオンの近くにいることを嫌がり、
前線司令官や植民地総督の地位を望んだが、
結局いずれも沙汰止みとなっている。
ナポレオンが皇帝に即位すると元帥に任じられ、
ハノーファー総督として行政に辣腕を振るい、
ナポレオン戦争では第1軍団を率いて参戦し功績を重ねた。
プロイセンとの戦いの最中リューベックでは敵援軍であったスウェーデン兵を補足し、
寛大に扱った上で帰国させたが、これが後の彼の運命を大きく変えることになった。
しかしあまり忠実とは言えないベルナドットはナポレオンに警戒され、
独断で出した布告が野心の証ではないかと咎められ、
事実上の退役に追い込まれた。
ところがここでスウェーデンで王太子の事故死による後継者問題が発生し、
事態が急変することとなった。
スウェーデンの中にはかつての寛大な扱いからベルナドットのシンパとなった勢力がおり、
フランスに派遣された使者の中のシンパが独断でベルナドットに王位継承者の話を持ち込んだ。
この話はベルナドット自身半信半疑であり、ナポレオンもこの話に驚いたが、
プロテスタントへの改宗がネックとなって他の候補者に断られたため、
この時点で明確な回答をせず使者を返した。
その後スウェーデンでは支持者の働きかけによってベルナドットが選ばれ、
フランスの平民が王太子となり、
さらに王の健康悪化により摂政兼陸海軍総帥となって政治軍事の采配を執ることになった。
スウェーデンに渡ったベルナドットはフランスによる大陸封鎖令や港の差し押さえに反発し、
ロシア遠征では中立を宣言しナポレオンに従わなかった。
さらに諸外国からデンマーク領であったノルウェー併合の約束を取り付けた上で
対フランス戦争に加わった。
フランスとの戦いに勝利しナポレオンが退位するとベルナドットを擁立する声も上がったが、
これはタレーランに拒否されルイ18世の即位が確定した。
帰国したベルナドットはノルウェー独立の動きに対し自治権を認め同君連合となることで対処し、
その成功によりスウェーデンでの人気は絶大なものとなった。
ナポレオン百日天下やウィーン会議では目立った動きは出来なかったものの、
保守反動が欧州を席捲する中革命でのし上がったベルナドットは地位を保つことに成功した。
即位しカール14世となったベルナドットは内政外交に手腕を発揮しスウェーデンを発展させたが、
スウェーデン語の習得に失敗し貴族としか会話できなかったこともあり徐々に保守化していった。
そのこともあって晩年は政治対立を招いたが、
沈静化に成功し安定と繁栄の中天寿を全うした。
ベルナドットは英雄ナポレオンのライバルと見做され、
スウェーデン王太子となった後フランスと敵対したため、
フランスでは裏切者と見られ評判が悪い。
一方スウェーデンでは対ロシア敗戦で疲弊した国力を復活させ、
平和と繁栄をもたらした名君として人気が高く、
真逆の評価を受けている。
軍人としては派手な戦功には欠けるものの、
部下の規律維持と軍政では優れた手腕を発揮しナポレオンにも認められていた。
ただし元帥になれたのはその手腕以上に元婚約者デジレへの配慮が大きかったようである。
部下の将兵の人気は高かったが、
気難しい性格で敵も多く、特にナポレオンや彼に忠実なダヴーからは終始警戒され続けていた。
本人は政治闘争に加わることを終始避け続けていたが、
従順でない性格から野心家と周囲から見られてしまった。
総じて人付き合いが下手なめんどくさい性格のため悪く見られがちであるが、
見識と良識はそれなりにあったため名君として天寿を全うできた。