バトゥ

[モンゴル帝国]

ジュチ=ウルスの事実上の建国者。 チンギス=ハーンの長子ジュチの次男で、 母の家柄から父の死後その後継者となる。 オゴタイの代のヨーロッパ遠征で、 家柄と領地が西方の前線近くにあったことから総司令官に任じられた。 副司令官として歴戦の名将スブタイやオゴタイの子グユク、 トゥルイの子モンケが付けられ、 実際の指揮はスブタイが取っていたと伝えられるが、 それでもモンゴルの多くの王族を率いて目覚しい働きをし、 東欧の大部分を征服した。 これから中欧に進むというときに大ハーンのオゴタイが死去し、 遠征を中止して領地に帰還した。 そして征服したロシア・ウクライナの支配権はバトゥが得ることとなった。 最初の父の領地であったイルティシュ川河畔は兄オルダが中心となって統治し、 バトゥはキプチャク草原以西の草原と属国となったルーシ諸侯を支配した。 その後グユクとモンケが対立するとモンケ側に付き、 グユクの急死後一門の有力者としてモンケが即位するのに貢献した。 なおグユクの急死はバトゥによる暗殺であるとの説もある。 また自身大ハーンの座も狙える有力者であったが、 盟友のモンケを即位させ、 キングメーカー・No2として実質的な権力を得ることとなった。 自ら築いた首都サライ近郊で病死した。 後を継いだ息子達が次々と夭折したため、 弟のオルダが実質的な後継者となった。
バトゥはヨーロッパ遠征の司令官として、 特にロシアでは暴虐な君主として見做されることが多いが、 モンゴルでは「サイン=ハン」(賢君)と呼ばれる優れた君主であった。 一方、ジュチ家の勢力は拡大させたものの、 オゴタイ死後の行動でモンゴル帝国の分裂傾向を助長させた面もあり、 モンゴルから見て「良い君主」であったかどうかは微妙な所である。 能臣というより奸雄寄りだったのかもしれない。

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