昆陽の戦い(こんようのたたかい)

[中国−新]

新の動乱期に緑林軍(更始帝政権)と新軍の間で行われた戦い。 緑林軍を率いた劉秀(後の光武帝)がその武名を大いに高めた戦いである。 劉秀の兄劉[糸寅]は荘尤率いる新の討伐軍を破り、 要衝の宛城の攻略に取り掛かった。 これに対して新の王莽は100万と号する大軍を王邑に預けて送り出した。 なお実数は40万位だったとも言われるが、 数百人の兵法家や巨漢の勇士、果ては猛獣の群れまで従えた異様な軍勢であった。 足止め部隊である劉秀・王鳳・王常率いる軍勢は1万に満たず、 抗しえずに一旦近くの昆陽城に逃げ込んだ。 窮地を打開するため劉秀は周辺で援軍を集めることにし、 王鳳・王常に守備を任せ少数(13騎)で城を脱出した。 新軍では荘尤が本来の目的である宛の救援を主張したが、 王邑は面子を気にして聞き入れず全軍で昆陽を包囲した。 王鳳らは敵わないと思い降伏を申し出たが、 王邑はこれを拒絶したため守備隊は死に物狂いになって応戦した。 こうして新軍が城攻めに手古摺っている間に 劉秀は数千の援軍をかき集めて昆陽に戻った。 王邑は侮って1万ほどの軍勢で迎撃したが、 劉秀らの勇戦の前に敗れ、昆陽への接近を許した。 さらに「宛が陥落した」との偽情報を流し、味方の鼓舞と敵の動揺を招いた (劉秀達は知らなかったがこの頃宛は本当に陥落していた)。 その上で劉秀は決死隊3千を率いて敵の本陣を急襲し、 副将の王尋を討ち取った。 これに乗じて城兵も出撃し、さらに嵐にまで見舞われて新軍は大混乱に陥り、 暴れた猛獣や氾濫した河、群衆雪崩によって多くの死者を出した。 王邑や荘尤らはわずか数千の兵と共に洛陽へたどり着いた。 宛の陥落とこの昆陽の敗戦で新は大量の兵と威信を失い、 その年の内に滅亡することとなった。 一方宛を落とした劉[糸寅]と昆陽の勝者となった劉秀は更始帝に警戒され、 劉[糸寅]は殺害され劉秀は雌伏の後河北で独立し、 光武帝として中華統一を果たすことになった。
新軍は圧倒的な大軍であったが、 数が多過ぎて統制を欠き、 主将王邑の判断ミスもあって利点を生かすことが出来なかった。 一方緑林軍はそれまで兄劉[糸寅]の陰に隠れ地味な存在であった劉秀が 予想外に獅子奮迅の活躍を見せ、 後の活躍の嚆矢となった。 なお王鳳は更始帝政権下で記録から消えてしまうが、 王常は後に劉秀に従い名臣と称えられた。

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