馬援(ばえん)

[中国−新・漢]

光武帝劉秀配下の武将。字は文淵。 伏波将軍の号や三国志の馬騰・馬超の先祖として知られる。 先祖は戦国時代の趙の名将として知られる馬服君趙奢という名門の家柄であったが、 曾祖父の馬通がその兄馬何羅と共に反乱を起こして処刑されたため、 一族は官につくことが出来なかった。 また父の死後兄の養育下で学問に取り組み詩を学んだがものにならず、 北方で牧畜を営むことを望むようになったが、 兄が死去し兄嫁の面倒を見るため願いは叶わなかった。 王莽の新が成立すると郡の督郵となり囚人の護送をしていたが、 囚人に同情したのか解放して自らも逃亡し、念願の牧畜と農業を始めた。 事業を始めると家畜は順調に増えていき、 また周囲の人々にも慕われて地域の実力者となっていった。 新末期には大尹(太守)とされたが、 その滅亡後には難を避けて隴西へ行きそこで割拠した隗囂の部下となった。 当時河北・中央を制しつつあった劉秀と蜀の公孫述が対立し、 隗囂はどちらにつくべきか悩み馬援を使者として派遣して調べることにした。 先ず赴いた公孫述は馬援とは同郷の馴染みであったが、 盛大な歓迎を催したが親しみを全く感じさせなかったため馬援は幻滅し、 隗囂には公孫述は「井の底の蛙」で組するに値しないと伝えた。 次いで劉秀の下へ赴くと宮殿は戦禍で荒れ果てたままで豪華ではなかったが、 劉秀とは親しく話し合い意気投合した。 馬援は劉秀の使者である来歙と共に帰って隗囂を説得し、 人質の隗恂と共に劉秀のいる洛陽へ戻りそのまま臣従した。 隗囂が変心して敵対すると来歙の部下として参戦し、 内情を知る馬援は積極攻勢を訴えて勝利に貢献し、 戦後は隴西太守として占領地の統治を任された。 天下統一後ベトナムで徴姉妹が反乱を起こすと伏波将軍として鎮圧軍の司令官に任じられ、 姉妹を破って乱を鎮圧しその盛名を高めた。 晩年武陵五渓の反乱が起こると出陣を願い、 劉秀が老年を理由に渋ると馬を乗り回して「矍鑠たる」ことを示し 司令官として出陣した。 しかし暑熱の中軍中で疫病が蔓延し、馬援も病死した。 死後馬援を恨んでいた梁松が讒言し、怒った劉秀は馬援の諸侯の印綬を取り上げた。 その後甥の馬厳や幼馴染であった朱勃が赦免を訴え、 娘が明帝の皇后となったことで名誉回復が果たされた。
馬援は臣従時期が劉秀光武帝が中原を制圧した後と遅いため、 活躍は対隗囂戦以外は天下統一後の反乱鎮圧が主である。 特に徴姉妹の乱の鎮圧が有名で、これで名将としての評価を不動のものにしたと言える。 人気も高かったが、反面幼馴染の朱勃があまり出世していないと軽んじるなど情に薄い面があった。 その朱勃が自身の死後名誉回復のために奔走するなど思いもよらなかったであろう。 そもそも梁松の恨みを買ったのも友人の子供故格下扱いしたからであり、 馬援もかなりの問題児と言えるかもしれない。 ちなみに子孫である正史の馬超も勇将ではあるがかなりの問題児である。

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