[中東−中世]
エジプト・シリアを支配したイスラム教スンニ派の王朝。
名前は建国者サラディンの父の名に由来する。
クルド人の武将でヌール=ウッディーンの部下であったサラディンが
当時エジプトを支配していたファティマ朝の宰相となって実権を握り、
自らスルタンとなって興した。
ヌール=ウッディーンの死後、シリア方面にも領土を広げ、
特に十字軍国家を圧迫してエルサレムを奪還した。
サラディンの死後、領土は息子達に分割相続されたが、
息子同士の権力抗争により、実権はサラディンの弟のアル=アーディルに移った。
十字軍との戦いで主に外交を担当していたアル=アーディルは、
スルタンになっても外交により十字軍との平和を維持した。
その平和が破れ、十字軍侵攻とスルタン急死が重なったが、
その息子のアル=カーミルが撃退に成功した。
しかし、アル=カーミルは王族の内紛に苦しめられ、
後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と交渉し、エルサレムを割譲した。
このことにより内乱は鎮圧されたものの、新たな不満の種を生むこととなった。
アル=カーミルの死後エルサレムは再び奪還されたが、
後にスルタンのシャジャル=ウッドゥルに暗殺され、
アイユーブ朝は滅亡したと見なされた。
シャジャル=ウッドゥル以降実権は奴隷出身兵であるマムルークに握られ、
マムルーク朝時代に移っていく。
アイユーブ朝はサラディンに代表されるように十字軍に対して
優位に戦った強国であるが、内部にまとまりを欠き、
内紛により比較的短命に終わった。
この傾向はオスマン朝を除く以後のイスラム王朝にも見られる。
イスラムの実力主義=スルタンは軍事力で決める伝統が背景にあると考えられる。
なお、クルド人の王朝だが、代々のスルタンにクルド人である自覚は
あまり無かったと考えられている。