オーストリア継承戦争(オーストリアけいしょうせんそう)

[ヨーロッパ−近世]

神聖ローマ帝国およびオーストリア大公国の継承問題を発端に起こった戦争。 皇帝兼オーストリア大公であったカール6世は男子の後継者に恵まれず、 娘マリア=テレジアとその夫フランツ=シュテファンに継承させるため画策を行った。 女子であるマリアは帝位継承権を持たなかったため、フランツが皇帝になることとしたが、 フランスの同意を得るためフランツの本来の領土であるロートリンゲンをフランスに割譲し、 代わりにフランツは断絶したトスカーナ大公となった。 カールの没後マリアはオーストリア大公として政治の実権を掌握したが、 プロイセンのフリードリヒ2世は皇帝選挙でフランツを推挙する代償として シュレージエン(シレジア)の割譲を要求し、断られると軍事侵攻して実力で奪い取った。 当然オーストリアは反撃をしたが、プロイセンの反撃に敗れ、 さらにオーストリアの弱体化を狙うフランスがスペイン・バイエルンと共に参戦した。 オーストリア側にはイギリス・ネーデルラントが加わったが、 イギリスは専ら植民地の獲得に終始し、 後に加わりスペインを足止めしたサルディーニャ以外戦力は小さかった。 オーストリアは劣勢でバイエルンのカール7世に帝位を奪われたが、 ハンガリーを懐柔して反撃し、逆にバイエルンを占領してフランツを帝位に就けた。 一旦和平していたプロイセンはこの状況を危険と判断し再びオーストリアと戦端を開いた。 プロイセン・バイエルンは補給を脅かされ不利になったが、 会戦に勝利することで和平に持ち込み、シュレージエンの維持には成功した。 一連の戦いの結果、オーストリアはシュレージエンを失ったものの マリアの大公領継承とフランツの皇位は確保し大国の地位を保った。 フランスはオーストリア弱体化に失敗し、イギリスの植民地獲得も中途半端に終わり、 プロイセンのみが豊かなシュレージエンを獲得して「大王」の名声を得ることとなった。 しかしこのことは禍根として残り、最終決着は後の7年戦争に持ち越されることとなった。

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