[ヨーロッパ−近代]
現チェコのモラヴィア地方で行われた
ナポレオン率いるフランスとロシア・オーストリア連合軍との間の戦い。
三国の皇帝が関与したことから三帝会戦とも呼ばれ、
ナポレオンの数ある戦いの中でも最も劇的な勝利であった。
エジプト遠征の苦戦から始まった第2次対仏大同盟は
フランスの第2次イタリア遠征によって崩壊し、
対イギリス戦もアミアンの和約によって終結した。
しかし英仏の関係は改善どころか悪化し続け、
フランスに煮え湯を飲まされた諸国を巻き込んで第3次対仏大同盟が結成された。
当初ナポレオンが目論んでいたイギリス上陸計画は
トラファルガーの海戦での敗北で完全に頓挫したが、
皇帝に即位したナポレオンは目標をオーストリア方面に切り替え、
フランスの同盟国バイエルンに攻め込んでいたオーストリア軍を撃破し
首都ウィーンすら占領した。
これに対してロシアは皇帝アレクサンドル1世まで出陣して救援したが間に合わず、
オーストリア軍の残存兵力と合流した。
ロシア軍の司令官であるクトゥーゾフは一旦退却し有利な条件で戦おうとしたが、
ナポレオンは兵力の使者への態度を偽装してフランスが不利であると思わせ
(実際フランス側の兵力が劣勢ではあったが)、
これにかかった連合軍やアレクサンドルは強硬策に転じ
フランス軍を攻撃することにした。
戦闘においてもナポレオンはあえて有利な高地を敵に取らせる、
右翼をわざと手薄にするなどの策略を講じて相手を翻弄した。
そして右翼のダヴー率いる第3軍団が持ちこたえている間に
スールト率いる第4軍団が中央突破に成功し、
決定的な勝利を得た。
この戦いによってプレスブルクの和約が結ばれ、
オーストリアは多くの領地を失った上神聖ローマ帝国が解体された。
ナポレオンはこの戦いと翌年のプロイセンとの戦いの勝利によって、
ヨーロッパの覇者となることになる。