アウグスト2世

[ヨーロッパ−近世]

ポーランド王兼ザクセン選帝侯。 ザクセン選帝侯としての名はフリードリヒ=アウグスト1世。 怪力の持ち主であったことから「鉄腕王」「強健王」と呼ばれた。 ザクセン選帝侯の次男として生まれたが、 兄が天然痘で急死したため侯位を継いだ。 ザクセンはプロテスタントの拠点であったが、 ポーランド王選挙で立候補するためカトリックに改宗し、 以後プロテスタント指導者の地位はプロイセンへと移行していった。 国王選挙ではロシア・オーストリアの後ろ盾を得たが、 フランスが支援するフランソワ=ルイに得票数で勝てなかった。 しかしポーランドに近いザクセンにいたため、 先に強引に戴冠式を行って既成事実を作ってしまった。 先代ヤン3世に続き対オスマン戦争を続行し、 カルロヴィッツ条約でポドリアの領土を獲得した。 しかしバルト海沿岸の領土を狙った対スウェーデン戦にて、 カール12世率いるスウェーデン軍に敗れて退位を余儀なくされた。 カール12世はポーランドのマグナート(大貴族) スタニスワフ=レシチニスキを王位に就けたが、 ロシアのピョートル大帝が勝利したため、その後ろ盾で復位できた。 しかしこれ以降ポーランドはロシアの保護国として扱われるようになり、 地位低下は決定的となった。 アウグストはポーランド王位の世襲化を狙っていたが、 その試みは悉く失敗した。 死後退位していたスタニスワフの短い治世の後息子アウグスト3世が即位したが、 やはりロシアの力によるものであったためさらにポーランドの地位は低下していき、 後の分割による滅亡へと繋がった。
アウグスト2世はザクセンでは文化事業やマイセン磁器の保護育成により名君と認識されているが、 他方ポーランドではザクセンの都合と己の野望でポーランドをかき回した暗君 (或は暴君)と見られている。 ポーランドでは選挙王政で外国人王が即位する弊害が見られたが、 アウグストはその最たるものであった。
アウグストはその怪力だけでなく精力旺盛でも有名で、 多くの愛人と300人以上の子を持った。 中でも最年長のマウリッツはフランスで軍人となり、 大元帥モーリス=ド=サックスとして嫡子アウグスト以上に名声を残した。

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